村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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テナーサックス担いで社会奉仕活動開始1

団塊の世代の自分、テナーサックス担いで社会奉仕活動開始。
自分の親に再会した錯覚も~~有料老人ホーム訪問。         
――その1――

この夏、長年自分がしてきたjazzを元手に、CDを制作したのだが、その目的は、老人ホーム訪問に目的があった。

最近、『2007年問題』とか『団塊の世代の大量退職』なぞの記事が目立つようになっているが、実は、僕が丁度その世代に当たっている。
僕らは、戦後の混乱期に生まれて、丁度ベビーブームだ。
飯も満足に食えず、着るものも兄貴たちのお下がりが普通で、穴が開いていたり、はいているズボンのひざ小僧には、お袋に縫ってもらった継ぎはぎが当たり前だったのを思い出す。でも、誰もが同じだから、別に恥ずかしいことではなかった。
まだ、戦争の影が色濃く残っていた時代だ。

街には、傷痍軍人といって戦争で腕や足を失った人たちが白い服をまとって、往来の人たちに浄財をお願いしている姿が眼に焼きついて残っているが、僕の住んでいた西荻窪あたりでも駅周辺でも毎日こうした光景を目にした。
僕らの小さい頃は、よく言われるように、腹いっぱいバナナを食いたいと本気で思った時代だった。パイナップルなぞは絵本の中に見るだけで、夢のまた夢で、さぞかし美味いんだろうな、と、想像をしていたのを覚えている。

だが、僕が確か4~5歳の頃だから昭和27、8年頃か、突然、うちにパイナップルがいっぱい来たことがあった。あのときだけは、夢中で食べさせてもらった記憶があるが、後年3番目の姉が言うには、一番上の姉が銀座で行なわれた『ミスパイナップルコンテストに優勝した』んで、賞品としてもらってきたものだと教えてくれた。パイナップルは、想像していたほど美味しいものではなかった。その長姉も数年前にすい臓がんで亡くなった。

僕の兄弟は8人いて、戦前生まれが5人で戦後が3人である。
僕は、戦後のまん中生まれで、昭和22年だ。
僕の家は、昔、古着屋をやっていて親父が儲けたのか、たまたま大きな敷地と建物だったから、家に広い風呂があった。風呂場だけで四畳半ぐらいはあった。いわゆる五右衛門風呂って言うのか、70センチメートル四方の“すのこ”がお湯に浮いていて、足でそれを押しながら沈めて身体を湯船に入れるのである。その湯船は分厚い鉄で出来ていて触ると暑いから、寄りかからないようにしていた。
あの風呂、確か、『となりのトトロ』っていう映画にも出てきた。お父さんとメイちゃんが二人でお風呂に入るシーンがあった。あのアニメに出てくる家、僕の小さい頃の家のイメージとぴったり一致する。あんな感じの家だった。
懐かしかった。
あれは、埼玉県の所沢って言うところのお話だが、僕の世代の話で、実に親しみの持てるアニメだった。子供達と何回も見た。
僕の親父は、若いときには賭け事と女、晩年は酒に身を持ち崩して寂しく死んでいったが、住まいも少しずつ切り売りして、最後には土地が50坪足らずにまで減ってしまった。

当時はまだ、家庭に風呂のない家が多く、西荻窪の僕の家の回りでは、銭湯に行くのが普通だった。
僕は、寒くてうちの風呂が好きでなく、殆んど毎日、目の前の警察アパートの智二と一緒に銭湯へ行っていた。どういうわけか、うちに立派な風呂があるのに、僕の家族は皆銭湯へ行っていた。なぜなんだか?多分、沸かすのが大変だったのだろう。母は薪ををたくさん燃やして風呂を沸かしていたが、見ていて大変そうだった。

あの当時、コロッケが1個5円の時代だから、銭湯の子供料金も確か20円程度だったか。
風呂から出て、脱衣場にあるコーヒー牛乳を飲むのが楽しみだった。小学校を卒業するまでは、殆んど毎日風呂桶に石鹸を入れて近所の“福の湯”へ通っていた。

銭湯には、番台というものがあって、大概どこの風呂屋もその番台の前に男と女の着替え場に行き来する扉があった。銭湯のお姉さんたちがそこを行き来するときに、うまくすると女湯のほうが見えることがあるのである。小学6年の頃は、もうそんなくだらないことが、楽しみであったこともあった。

あの頃は、服装ばかりでなく、街全体が不衛生だったのか、僕もよくオデキが出来た。おふくろが患部によく”タコの吸出し”なぞといって緑色の膏薬のようなものを塗ってくれたのを覚えている。
あれが、不思議と直った。
それから、昔は、何故か、よくとげが刺さることが多かった。すると、またおふくろが巣鴨のトゲヌキ地蔵の「お札だよ」といって、小さな和紙で、お地蔵さんが薄く印刷されているものを飲ませてくれた。
それも、飲むと、不思議と直った。
また、そのお札は、トゲ以外でも痛いところをさすってから貼ってから飲むと、直った記憶がある。
また、青っぱなをたらしている子も大勢いた。
なんでだろう。
あの当時、食べているものの栄養の関係だろうか、今では一人としてそういう子供を見ないがーーー。
こんなことを書いていたら切りがないが、小学校から中学校への想い出も。
生徒が多くて教室が足りず、校庭にプレハブを建てて授業を受けていた。何せ、僕の通っていた高井戸第四小学校は、一学年で250人はいたし、中学校は、神明中学校というところで、530人ほどはいた。だから、それまでの教室の数では全然足りないのであった。
今じゃ、一学年50人もおぼつかなく、学校が閉鎖される始末である。
まだ、40数年ほどの経過なのだけれど、隔世の感!!
それほど、あの第二次世界大戦はそんなに遠い話じゃないってコトだろうし、また逆に、急激に日本という国が変化しているってことか。

日本全国が子供が多くて、そんなマンモス状態だから、高校受験も大学受験も大変な競争で、就職にまで不利な状態が続いていた。僕らは末代まで祟っていて、子供も孫も数が多い。たまたま僕は婚期が遅れたから、下の娘は今年が受験で、運よくそんなに数は多くない。

――つづく――

P・S 僕のブログが長いので、「読むのに疲れる」と言われた。だから、これからは長くしないで、できるだけ毎日書くようにしたい。
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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