村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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沖田総司と沖田家にまつわる謎(順不同)―――1

BBSで、沖田総司に関する謎について、コメントを頂いた。
僕も、長らくこの話題にはご無沙汰していたので、恐縮したのだが、再考してみた。相変わらず、この家族は複雑怪奇で、研究家や歴史家泣かせである。考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。
今から、約半年前に沖田の研究家としては第1人者の菊池明さんや清水隆氏、山村竜也氏、小島正孝氏らと、日野のジョナサンでこの話題についても歓談したが、皆さん同じようで、難解なのだ。

僕がこの話題を他人にすると、皆が嫌がる。
いや、沖田君には関心があるものの、家系の話になると、難しくて謎解きみたいで、誰もがわからなくなってしまうからだ。終いには面倒くさくなってしまって、どうでもよくなってしまう。だから、僕も自分の本の中で、沖田総司の素性について詳しく書いたのだが、聞いてみると大概の人がわからないまま通過している。
考えていたら、先に進めないからである。

それでも、辛抱強く、再び謎について考えてみる。思いつくまま、順不同である。
1 父母は誰か。母はともかく、父が勝次郎であるとの実証がないという人もいるが。

2 総司の生年月日は天保13、それとも15年のどちらか。

3 父は勝次郎のほか、林太郎元常がいたのか。それとも同一人物か。

4 専称寺の過去帳には、『林太郎次男』とあるが、どう考える。

5 阿部家の御家人株を何時買ったか。阿部家分限帳によると、祖父の代に(文政2年)足軽小頭を仰せつかっているが。

6 井上本家に、『中郎流押花図会花図』の小冊子がある。そこには沖田桃笠なる人物のサインがあるが、それは祖父にあたる三四郎のことなのか。

7 22表2人扶持白河藩最下級武士に、このような趣味に現を抜かす余裕があったのだろうか。

8 白河藩下屋敷があった江戸麻布では、宝暦年間から草花の栽培が内職として行なわれていたので、『押花』ではなく園芸なら可能性はありえたが(ただし、祖父の代の阿部家は白河藩ではなく忍藩であった)。---友人の山本氏の調査による。

9 泰助の手紙の下書きが、井上本家にあるが、この中で、ミツが泰助とハナの縁談に反対だったとする説があるが、どういう理由でか(血が濃すぎるとか、士族と平民の違いという説もあるが、どうも説得にかける。当時の井上本家は日野宿でもかなりの豪農で3本指に入っていたとも言われているし、一説には、沖田家は井上家に経済的な支援を受けていたともされる)。
 
10この下書きは、泰助とミツが両家のこれまでの経緯を確かめ合っている部分があり、嘘偽りは言うことができない性格上、当時の井上本家、分家、沖田家、宮原家の関係を確かめるうえで第1級の資料だと確信している。すると、ここに出てくる宮原久五郎なる人物はどういう人か。総司の母の兄弟であるとの、宮原家の言い伝えがあるが、本当か。

11久五郎氏は、天保5年(1834)10月9日生まれで、なんと近藤勇と全く同じ日である。かなり長生きした人で、大正7年(1918)3月3日に84歳で没している。この人の父の名は勇吉で久五郎は長男であった。唯、上に姉はいたかもしれない。いや、いないと困る。それも久五郎より15歳程度年上の人で。でないと、総司の母にはなりえないからだ。

総司は天保13年(1842)生まれだとして、上に姉が二人いるから(実の姉だとして)母が25歳で生んだとした場合、母は文化14年(1817)生まれの人になる。そして、沖田家の過去帳によれば、文久2年8月9日に沖田林太郎母という女性が一人没している。過去帳の中に総司の母に当たる女性はほかに見当たらないから、常識的にはこの人が母になる。

12この泰助のミツ宛の手紙の下書きの中に、次のようなくだりがある。「ご祖母様(ミツ)の父タル者も私宅分家井上惣蔵ナル者の弟、ご祖母様のつれ合い亡林太郎モ井上宗蔵ナル者の弟ニテ姓は沖田家を惣続すれ共骨水は井上の交合スル其旧縁ニ依りテ」
 
この中で、『亡林太郎』となっているが、ミツの連れ合いの林太郎房正が亡くなったのが明治16年2月13日であるから、この下書きを書いたのはそれ以降になる。そして、長男芳次郎にハナが入籍したのが明治19年10月28日である。

そして、この下書きには、宮原久五郎の名が2回出てくるが、この久五郎氏の奥様は後妻になるが、ヨ子という人で天保10年生まれであり、井上宗吉の次女である。すると、久五郎さんも井上分家から奥様をめとっていたのだろうか。それも“宗”のつく人の娘さんからである。偶然か。

また、この下書きの中に「久五郎殿の娘、梅殿が私妹花を貫情結縁ーーー」とあって、梅という娘さんがいたことになっているが、戸籍にはのっていない。久五郎の次女として「ヒサ」という元治元年7月18日生まれの人はいるが、もしかして、戸籍にはのっていないが、長女か。

13総司の母を中心に考えてみると、

専称寺の過去帳から、亡くなった人を推測すると、最初の夫が勝次郎(弘化2年3月20日死亡――1845)で、次が林太郎父となっているので、元常(嘉永5年7月3日死亡)ではないかということになる。
長女のミツの婚姻が戸籍上嘉永4年8月26日で、井上分家から林太郎房正を養子として迎えている。この時点では、夫の元常はまだ健在である。だが、夫の死後、次女のキンが中野由秀に嫁いだのだが、このキンの長女ナミが生まれたのが嘉永6年8月7日なので、父の亡くなった嘉永5年中かその前に嫁いだことは間違いない。
そして総司だが、ちょうどこの嘉永5年ごろに試衛館に内弟子としてか入門している。

娘二人は片付き、息子は試衛館に内弟子に入ってしまっているのだから、ここで母は、独りぼっちになっているはずである。どうして生活していたのだろう、ミツ夫妻のところに身を寄せていたか、実家に帰っていたのか、それとも、井上の分家に世話になっていたか、あるいは近所中が大野姓なので、そのどこかに世話になっていたとも考えられる。(総司の墓の両脇に俗名大野源次郎の名が戒名で彫られている)
12歳前後の総司郎には、母と一緒にまだいたかったろうに。母子の心境を考えると、せつないものがあるが、なぜそうなったのか。単純に剣に才能がありそうだから、母子を裂いたのだろうか。
できることなら、そうしたとされる井上松五郎に聞いてみたい。

ともかく、沖田家は生活するに十分な扶持をもらっていたとは思えないので、母は、日野に住んで井上や宮原の世話になって生活していたのではないかと思われる。だから、実家の宮原家ではなく井上本家や近所の石坂家から、沖田家の子供机や先の押花図会などが出てくるのではないか。そして、ミツの孫重治が夭折したとき、沖田家ではなく宮原家の墓に入れてもらっている。これは、ミツの母が宮原の出だからであろうし、菩提寺の薬王寺が宮原からも井上からも歩いて2~3分の距離にあるからだ。
なお、キンの戸籍では、亡沖田勝次郎娘ではなく沖田林太郎妹となっている。中野由秀との婚姻時には、勝次郎は死亡(弘化2年2月20日)していて、既にこの世にいなかったからか。。

つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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