村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

沖田総司と沖田家にまつわる謎(順不同)―――2

さて、沖田総司の謎について、再度考え始めてから、ほかの記事を2回挟んでしまった。続きを書かなければならない。

14 ミツの出自について、考えてみる。
これまでの定説では、沖田勝次郎の長女で総司とは実の兄弟として認識されてきている。
だが、日野市役所に残されている戸籍やその他で、近藤藤蔵や周助の長女とする記述があるのだが、この真実はどうなっているのか、大変重要なことだがわかっていない。
もし沖田勝次郎の娘でないのなら、総司とミツは血が繋がっていないことになるし、林太郎房正と総司が実の兄弟で、そこにミツが嫁入りして沖田家に入ったことになる。あるいは、総司だけが勝次郎の実子で、林太郎は養子に入ったか。実子が生まれているのに、養子を取る必要があるのだろうか。だとすると、総司が生まれる前に林太郎を養子にとったことになる。

二番目の姉のキンが生まれたのが天保7年4月11日である。総司が天保13年だとすると沖田家は6年間子供が出来なかった。男の子が欲しいから、その間に井上分家から林太郎を養子にもらってしまって、その後に総司が生まれたと推測できないか。

  林太郎は明治に入って、自ら、身上書に総司と実の兄弟のように記述している。
  ミツと祝言するためには、兄弟では無理だからミツを一旦周助に養女に出した形にして、再び沖田家に嫁入りさせた、と僕は考えている。
  すれば、林太郎が総司と実の兄弟のように記述しても、あながち嘘とはいえない。
  血は、繋がっていないが。

だとすると、井上泰助の下書きは、微妙に違っていることになる。
泰助は、ミツが周助の子であったとか、養女に入ったとかということは一言も触れてはいない。それは、お互いに触れることがタブーだったのかもしれない。言わなくても承知していることだから。
明治に入って、4年の壬申戸籍の届出時に、ミツは夫の林太郎を立てて沖田家の実子とし、自分はそこへ嫁入りしたという操作をしたとも考えられる。

15 なお、この近藤藤蔵だが、ミツの戸籍には『嘉永四年八月二六日北多摩郡大沢村 亡
近藤藤蔵長女入籍』となっている。このことをつぶさに調べた人がいるのだが、当時の大沢村に近藤姓の人は見当たらなかったという。だとすると、捏造したものか。何故、そんなことをする必要があったのか。
ちなみに、この大沢村とは今の三鷹市大沢で、調布市と隣接しているところだ。近藤勇(旧姓宮川勝五郎)の生家のあるところで、勇の墓のある竜現寺もそこである。
宮川勝五郎は16歳のときに近藤周助の養子となっているから、ミツも養女で入っていれば、この二人を夫婦にする考えがあってもおかしくはないカーーー?
なんだか、頭が変になってきた。

でも、ついでだから、もう少し突っ込んで考えてみようか。
ミツは天保4年で勝五郎は5年生まれだから、ミツのほうが一つ上である。周助に子がなく、自分は既に高齢だし、剣に才気を感じた勝五郎を16歳のときに養子にとった。同時に嫁さん候補も考えた。
それを、高弟でもあり度々無心していた井上松五郎に相談したところ、「いいのがいるよ」と言ってミツの名をあげていたかもしれない。
その時点では、ミツは17歳である。戸籍では、19歳で沖田家に嫁入りしている。まだ、婚姻はしていなかったはずである。
なんだか、小説じみてきた。
でも、偶然ではない、何かを感じるが。
(余談になるが、NHKの大河ドラマでは、ミツが近藤勇に惚れているように描かれていた。ミツは、試衛館に入りびたりで、あんなことは実際にありえなかったろうに、と思って見ていた。三谷さんは、深く考えてそのように台本を書いたとも思えないが、その実、上記のこともあったので、変な感じで僕はテレビを見ていた記憶がある)

16 ここで、興味深い記述を報告しなければならない。
  今回、この調査をしていて改めてその資料にぶち当たってしまったので、紹介する。実は、この資料は、僕が本を書く前から持っていて、気にはなっていたのだが、あまりに出来すぎているので、無視していたものである。だが、本当のところ、無視できない内容なので、載せさせていただく。

その資料とは、『歴史と旅』昭和55年11月号に載ったもので、―――”特集、謎と異説の新選組“の中の《沖田総司の恋人の謎》川西正隆―――の中のものである。
ちと長いが、川西氏の文章をそのまま載せさせていただく。
《沖田総司の覚え書》  
  総司は天保13年(1842)の暑い夏の6月1日に、奥州白河藩10万石阿部家江戸藩邸下屋敷内の組長屋に於いて、友部時右衛門組米32俵3人扶持、沖田勝次郎の嫡男として誕生の声を上げた。

    文久3年3月、上京した総司は近藤勇と京都に残留を決意して、京都守護職に京都留まりを請願して即日聞き届けに及んで、壬生邑郷士八木源之丞宅を宿舎と定めた。浪士組を改名して、新しく選ばれた者の組織の意をこめて、新選組と称することに定め、裁下を願い出るとともに、一同は生国正日を新しく書き留めて、京都守護職公用係に提出したのである。

沖田総司の提出した覚え書きは左の通り。
  生国 奥州白河 天保一三壬寅6月一日生
  沖田総司藤原房良 二十二歳
  父 沖田勝次郎 死 旧奥州白河臣
  母 沖田ミキ  日野宿四谷宮原家娘
  兄 沖田林太郎 御府内
  姉 沖田ミツ  嘉永四年八月二十六日婚 兄林太郎妻
  姉 沖田キン  嘉永五年 長岡支藩峯山藩臣中野由秀妻
  剣芸 天然理心流 近藤周助門人
  学問 小島鹿之助門
  
《沖田・井上両家の縁》
    総司の父、沖田勝次郎は弘化二年(1845)10月20日に死亡した。総司4歳、姉ミツは11歳、キンは8歳であった。―――
    沖田家は、日野宿で13俵1人扶持の日光山警備の千人同心、井上松五郎の分家である井上惣蔵の弟が相続することになった。
    白河藩では末期養子(死の直前に相続人を定める)は食禄半知と定められていた。沖田家当主勝次郎の死亡について相続人が定められていなかったので、当然、禄は半知に減らされてしまった。禄の半知は沖田家にとっては実に大きな痛手であった。半知では親子4人の生活は苦しくなるばかりであった。
    そこで、身の回りを整理した沖田ミキ母子は、武州日野宿四谷の宮原家へ引き取られていった。宮原家に落ち着いた母子は、祖父久五郎に、一度に男子と女子の三児の孫が出来たといって大変可愛がられたのである。
    井上惣蔵も甥の林太郎を連れては宮原家に出掛けて、総司たちを多いに可愛がっていた。
  「私の家と沖田家の菅家については、沖田総司は私の家の先祖で、私の父や祖父はよく沖田総司の話をしていました」
   という現当主の宮原久男氏の話が日野に残っている。(筆者注――久雄が正しい。平成18年に死亡)
    嘉永四年(1851)8月二十六日、総司10歳のとき、姉の沖田ミツは宮原久五郎の媒酌によって、井上惣蔵の子で宗蔵の弟である林太郎房正と目出度く結婚式を挙げた。

 17総司の母親について、菊池明氏は月刊『歴史読本』の中で、以下のように述べている。
      (総司の)母親について『沖田家文書』は「父母は幼少の時、死に別れ……」としているが、専称寺の過去帳に該当する人物は文久二年八月九日に死亡した、「同人(林太郎)母」とされる「誠心院清室妙林大姉」のはかにいない。勝次郎の死去から18年後のことであり、とても幼少期のことではない。
       ―――
      やはり過去帳による限り、「誠心院」こそ総司の母親であったとするほかはないようである。
      母親の名前は、残念ながら伝わっていない。

  と、述べられている。
だが、先の川西氏ははっきりと総司の母の名を「ミキ」としている。何もないところから捏造するとも思えないので、何かでお調べになったのであろう。
  でも、不思議だ。これだけ、これまで皆さんが関心を持って調査してきていることなのだが、彼は、母の名を言い切っているし、宮原久五郎についても、詳しくご存知だ。
このことについては、これ以上詳しく詮索はしない。
でも、総司が書いたとされる、京都守護職に提出した身上書なるものが残っているのか。そうなら、是非拝見したいが。
スポンサーサイト
コメント
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2011/10/10(月) 13:17 | | #[ コメントの編集]
釣洋一氏の創作です
>その資料とは、『歴史と旅』昭和55年11月号に載ったもので、―――”特集、謎と異説の新選組“の中の《沖田総司の恋人の謎》川西正隆―――の中のものである。

引用された上記の一文にある、総司の生年月日の「六月一日生」と総司の母親の名前「ミキ」は、昭和55年9月25日に新人物往来社から発行された釣洋一氏の著作『沖田総司の手記』が元ネタです。
沖田家の伝承に、「総司が生まれた日は、大変に暗い日で、灯りをたくさん点けたというように聞いております」とあるのをヒントに、1842年7月8日(天保十三年六月一日)が「日食」だったので、総司の生年月日に設定したそうです。
母親の名前「ミキ」は、総司の二人の姉「ミツ」と「キン」の名前から「ミキ」と設定したそうです。
これらの件について、釣氏ご自身が、2003年9月15日新人物往来社発行の『土方歳三波涛録』の中で言及されておりますので、ご一読をお薦めいたします。
2006/12/15(金) 22:02 | URL | チロ之助 #-[ コメントの編集]
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

壬申戸籍について

壬申戸籍壬申戸籍 (じんしんこせき) は、明治4年 (1871年) の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。1872年の干支からとって、壬申戸籍と呼び慣わす。江戸時代の宗門人別帳にかわり、皇族から平民までを戸を単位に集計した。また、江戸幕府の国
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






リンク
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カテゴリー
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新の記事
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近のコメント
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。