村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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『大阪城の近藤と土方』1

「歴史」とは、勝組の足跡なのだ。
―――小噺『大阪城の近藤と土方』を作ってみた―――

「新選組は反革命的な殺人集団」「幕府の番犬」「理論のない不勉強な農民の出世欲集団」「徳川家に利用されたあだ花」「時代に逆らった権力欲の集団」などと、非難されてきた。

だが、もし、今もって、徳川の時代が続いていたなら、上記のような非難は出来ないであろう。新選組の全てが肯定されているに違いない。260年で終わった政権が400年続いていると考えれば、我々は簡単に徳川を非難する言葉は使えない。新選組は脈々と続いて、いまだに、京都で絶大なる権勢を誇っているかもしれない。

戊辰戦争で徳川家が敗北した結果、賊軍とされ、反革命的な反乱軍として成敗の対象となってしまったから、否定されるのである。
新選組には、西国の浪士たちは、文久3年以降京都や大阪で散々にいじめられてきた。捕縛され、拷問にかけられ、殺されたものも随分といた。
新選組と会津藩は、反革命集団の象徴であった。そして、革命浪士たちの復讐の対象でもあった。だから、近藤は武士であっても『斬首』だったし、戊辰戦争で、会津の人々は相当にいじめられ、破壊され、24万石といわれた会津藩であったが、3万石程度で不毛の地本州の最北端の斗南へ転封させられた。
これらは、すべて戦争に負けたからなのだ。そして、勝ち残ったものが、過去の不都合な部分は消滅させて、都合の良いところのみを大げさに吹聴する。
歴史って、「勝組」の言い放題、やりたい放題でつくられてきている

近藤は、慶応3年12月18日に京都の南方、墨染というところで、鉄砲で右肩を打ち抜かれていた。重傷なので、鳥羽伏見の戦が始まった慶応四年正月3日は寝たまま大阪城に運ばれていて、 沖田総司と二人で床に伏せていた。
その近藤に、戦況について、次々と情報が入ってくる。
伏見の奉行所を守っていた土方歳三率いる新選組・会津連合軍も、薩摩軍が放つ砲弾に敗れて南方へと戦線を移動させたが、一時は攻勢に転じる場面もあったものの、続く淀千両松、橋本など局地戦全てに破れて大阪城まで逃げ延びてきていた。
圧倒的な戦力を誇っていた徳川軍であったが、鳥羽伏見戦争の敗因は戦略の浅薄さにもあったが、何よりも敵に錦の御旗が上がったのと、味方側に裏切りが続出したことによる。

大阪城の一室に寝ている近藤の頬は、げっそりとやけ細っている。近藤の枕元に、戦況報告に来た土方歳三が座っている。仰向けになったままで、近藤は細い声を出した。
「歳さん、もう終いだ。こんなに裏切りがでたんじゃ、戦えるもんじゃねえ。おまけに、味方の大将がまず最初に逃げ出したとあっちゃ、この戦に勝ち目はねえ」
近藤は気力が萎えてしまったためか、目じりから、生ぬるいひと雫の塊が流れ落ちた。
大阪城を、夜陰にまぎれて逃げ出した徳川将軍の脱出に落胆したこともあったが、同時に、右肩の骨を砕かれて、剣術家としての道を立たれてしまった惨めさに生きる気力をなくしていたのである。

近藤勇は、天保5年の生まれで土方歳三より1つ上である。
この時35歳になってまだ間もない頃だが、床に付している近藤の形相は、一遍に30年も年をとってしまったような面持ちである。それでなくとも、近藤は老けて見られているのである。土方は、あまりに年老いて見える近藤を見て愕然とした。
『まるで爺だ』
『これが、新選組局長近藤勇か。いきおいが感ぜられない』
『一月前の、新設されたあの豪華な不動堂の生活が、夢のことになってしまった』
『既に、竜宮城の出来事になってしまったのか。あまりに急変過ぎる』

ここ大阪城の近藤が寝ている一室に、毎日往診に来てくれている幕府御殿医松本良順には、「命があるだけでも、ありがたいと思え。これだけの重傷だ、普通じゃ、お前さんはとっくに死んでいるよ」と、たしなめられている。

近藤は仰向けのまま、続けた。
「関が原で勝ち取った徳川の政権だ。鳥羽伏見で負けりゃあ次の政権に交代よ。唯、それだけのことさ」
殆んど、焼けっぱちのことを言った。
この正月の5日にはふるさとの僚友、井上源三郎を淀千両松で失った。優秀な部下で情報通としてよく働いてくれた山崎丞(すすむ)も失った。
それだけではない。40日ほど前に、試衛館からの同士藤堂平助を斬ってしまった。また、山南もいない。永倉や原田、斉藤だっていつまで自分についてくるかわかったものではない。こうなってみると、新選組てやつは、最後は、歳さんと源さんと総司と自分の合計四人だった。   
みんな多摩の産だ。
新選組は、これからどうなるんだ。
自分の責任は思い。隣りの部屋に隔離されている総司だって、胸の病だ。長いことはない。自分だけがのうのうと生き残っているわけにはいかない。後のことは土方歳三に任せて、いっそ、自害して果てるかとまで思いつめている。
大阪城に運ばれてきてからというもの、近藤は、こんなことを毎日考えていたから、顔色にそれが表れて、死相さえ見え始めている。

枕元に座っていた土方歳三、例によって両方の腕を組んで正座し、近藤の話を聞いている。この人の癖で、相手の顔なぞ見ていない。常に静止して、正面を見ている。眼は半開きで、つぶってはいない。
土方歳三は、黒の羽織が好きだった。
いや、むしろ好んで、威圧的に身につけていたのかもしれない。局内の若手には、この後姿が恐ろしく、長く首筋近くまで垂らした髷を見ただけで身震いするほどだったのだが、正面に座ったら最後、手の震えが止まらない隊士は一人や二人ではなかった。
土方歳三は、近藤に対しては一定の礼儀はつくしているものの、こうした威圧感は、新選組内で、たった一人、自分より位が上の近藤局長に対しても変わらなかった。
敢えて、そうした。
局長の暴走、曲走を抑えなければならなかったからだ。そうして、新選組をここまで維持してきた。事実上、全て、土方が仕切っていた。
やり方は、間違っていなかった。
だから、新選組はここまで成長、発展してきている。
土方の芸術作品は、完成に近かった。殆んど思い通りに、ことは運んでいたはずだった。
だが、時代の波は、近藤らの舟をひっくり返してしまった。否、彼らの舟だけではない。徳川という260年の大船団を沈没させてしまった。

土方は、腕組みを解いた。両方のこぶしを両膝に置いた。おもむろに、いつもの低い声をゆっくりと発した。
「近藤さん、あんた、死ぬ気じゃないのか」


つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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