村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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久しぶりの新選組講演会―――2

―――近藤・土方の見た幕末―――


徳川幕府の政治は、将軍本家の独裁で、全国の諸侯に意見を求めるなぞという所謂『処士横議』なぞは考えられないことであった。
こんなことを許せば、それこそ独裁政権の破綻になって磐石の幕藩体制の崩壊に繋がりかねないからだ。
でも、幕府自らが、それを崩した。背に腹は代えられないからである。

1853年、ペリーが浦賀へやってきてから、幕府は各方面にとるべき施策を諮問したのだが、様々な意見が寄せられて、幕臣や諸大名からの答申を併せると700に近い書類だったと伝えられる。
これらは、殆んどが、攘夷をするだけの準備が出来ていないから『条件付での開国』で止むを得ないというものであったらしい。当時、小普請だった勝海舟は「人材を登用すること、交易の利益でもって武備を整えて大船を作って海外に出て貿易をすべし」と述べているが、この辺りが、精一杯の理知的苦渋の選択だったか。

この諮問は一般市民にまで意見を求めたということからして、いかに将軍家が追い詰められていたかが想像できるのだが、各方面から様々な面白い答申が寄せられていた。その中で傑作で有名なのは、江戸新吉原の遊女屋の主人藤吉の提案である。
「なにげなく漁をしている様子で異国船に近寄り、鶏や薪水や、そのほか外国人の望む漆器とか絵画などを贈って仲良しのようになり、だんだん打ちくつろぎ、そのうちに外国船に乗り込み、酒盛りなどを始める。そうこうしている間に、酒に酔った振りしてまず日本人同士で喧嘩を始める。そうすると外国人も口を出し、手を出すようになる。それを合図に軍艦の火薬庫に火をつけ、またまぐろ包丁で片っ端から外国人を斬り捨てる。成功は間違いなし。
 もし成功したなら、特別の褒美として、吉原繁盛のために以後、吉原町の郭の四方門の通用および山谷掘割の船宿経営を免許願いたい」という、ちゃっかりしたものだが、滑稽である。

このペリー騒動の結末は、翌嘉永7年3月3日に『日米和親条約』が結ばれたことで有名である。
その後、アメリカの真の狙いは通商条約の締結にあったから、執拗に日本側に条約締結を迫って、安政4年の秋に下田の領事館にいたハリスは強引に江戸城に押しかけ、半ば、通商条約を結ぶよう迫った。

ところでついでだが、このハリスのことを“唐人お吉”は「コンシローさん」と呼んだ。それは、総領事のことを「カウンシル」と発音していたからである。
ふ~ん。
ついでのついでだが、この時代来日したアメリカ人でJames Curtis Hepburnという宣教師がいた。この人はお医者さんでも有名で、後に明治学院を創設した人らしいが、ヘボン式ローマ字を考え出したことでも特にその名が知られている。
なんでヘボン式というかというと、「ヘプバーン」という発音からだという。
なるほど。
すると、あの『ローマの休日』で有名な大女優のAudrey Hepburnは、江戸時代の人たちには、”踊り平凡“ぐらいに聞こえていたかも。
こういう『空耳アワー』の話になると、タモリよりも、僕は森村誠一を思い出す。彼の出世作の『人間の証明』というミステリー小説は、今から約25年前に大ヒットした作品だが、「ストウハ」という言葉があの殺人劇のキーワードになっていたはずだ。これは 英語のStraw Hat (麦藁帽子)からきている。ホテルニューオータニのてっぺん付近のあの円形の階層から来ている。

もどす。
追い詰められた幕府は、翌安政5年6月19日、『日米通商修好条約』を結んでしまった。
この条約は止むを得なかったと思っているが、徳川政治崩壊の最大の原因であり、明治維新のきっかけになってしまったと、僕は考えている。
一般に、「幕末とは、いつから?」という質問に対して、大概「桜田門外の変から」と答える専門家が多い。僕もそう思うが、その暗殺劇の原因がここにあるからである。

この条約を結ぶにあたって、天皇の勅許(許し)を得なかった。
得る必要があったのかどうかは難しいが、勿論そんな決まりや慣行があったわけではないのだが、この頃の朝廷と幕府との権力的な均衡からして、とらないわけにはいないほど、徳川本家の信用が失墜していたのと、天皇の存在が改めて見直され始めた時期にあったということだろう。

この時代、日本の国を代表しているのは誰か。これは、内外ともに大問題であった。
天皇か、それとも将軍か。
このことは、日本国内のみならず、外国からやってきた役人たちが、交渉相手として誰を選べばよいのか困ってしまっていた。彼らは、天皇を『ミカド』、将軍を『タイクン』として区別したのだが、とりあえず将軍を相手に外交を行なった。幕府側も、それでよいと考えていた。だって、日本の国を代表しているのは、自分たちだと自負しているからである。
でも、このことが、徳川幕府にとっては不幸だった。その後、すべての物事が悪く展開する羽目に陥ってしまった。

当時は、『攘夷』が今の『民主主義』に当たるほど流行語だったぐらいだから、弱腰外交に対しては尊皇攘夷を標榜する浪士たちの格好の攻撃材料にされていた。これは、孝明天皇が大の夷狄嫌いだったことがそれらの志士たちに更なる勢いを与えてしまったともいえる。
長州は、関門海峡を通る外国船に大砲を撃ちはなって戦争を起こした。そして賠償金を請求された。薩摩も、生麦で英国人を斬ったり薩英戦争を起こした。これも賠償金は、日本政府たる徳川幕府が負担することになった。
泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったりである。
国を代表するとは、こういうことなのである。
こう考えると、お気の毒だが、徳川は滅ぶべくして消滅していったと思えなくも無い。明治維新の最大の原因はと聞かれれば、やはり、外国勢力の脅迫が大きかったと考えるべきだろう。

この頃の時代認識への解釈として大切なのは、外様で大藩の薩摩や長州でさえ、未だ徳川幕府を倒すという発想までは無く、せいぜい《幕政改革》を迫る程度のものであったということである。
まともな将軍を跡継ぎに据えないと、日本国が危ない。海外と対等に渡り合えるような人材でないと、清国の二のまえになるという発想から、14代将軍に当時聡明だと評価されていた一橋慶喜をと主張する人たちがいた。この派には、薩摩の島津斉彬や長州の毛利敬親、ほかに土佐の山内豊信、越前の松平慶永、伊予宇和島の伊達宗城なぞがいた。所謂良識派と呼ばれる藩主たちである。
一方、これに対して、これまでのしきたりを引きずって因習を大切にするべきだと主張する一派があった。これらは、譜代大名のうち特に格式の高い溜間詰の大名たちで、その中心は彦根藩藩主で大老の井伊直弼であった。この井伊のもとで暗躍していたのが国学者の長野主膳や宇津木六之丞、村山たかなどであったが、こちらは紀伊の慶福(よしとみ)という若い後継者を主張した。
この後継者争いは、井伊の支持する慶福が勝って14代将軍となり、後の家茂となる。天皇の許可を得ずに通商条約を結んでしまった大老井伊直弼は、世間から手痛い批判を浴びることになったが、これに対して直弼は恐怖政治で応酬した。
『安政の大獄』である。

つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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