村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

近藤・土方の見た幕末―――3

《徳川に、掛けそこなった一橋》

安政5年6月24日 ――江戸彦根藩上屋敷――

早朝から、越前藩主松平慶永が井伊直弼の邸宅に押しかけ、談判。
慶永 「アメリカとの条約が既に結ばれ、調印も終わっているが、朝廷の許しを得ていない。何と心得る」
直弼 「いかにもさようである。であるから、一昨日、京都に急使をのぼらせて許可を得るよう願っている」
慶永 「それは順序が逆であろう。独断で条約を結びながら、事が終わってから許可を得ようとは何事だ」
直弼 「尤もな仰せですが、議論百出の中、事は急を要し、仕方なく自分が判断いたしました。若し、拒絶すれば遂には戦争とも相成り、戦争ともなれば我国も清国の二の舞を演ずる恐れが多分にあります。これを避けるためには、調印する以外に方策は無い」
(この意見には、慶永も異議ないのであるが、独断調印をあくまで攻撃する)
慶永 「条約は、たとえ結ぶにしろ結ばないにせよ、朝廷の伺いもなしに調印したことは独断専行のそしりを免れない。いかに外国人が催促したとはいえ、彼らの脅しにおびえ、家康公以来の掟に背き、将軍家の威信に差しさわりを及ぼしたことは、許されるものか許されないものか、どうお考えだ」
(江戸城内で太鼓が鳴った)
直弼 「お聞きの通り、登城の時刻となりました。またの日にお話を承りたい」
慶永 「さようか。では、自分も伴に登城しよう」
直弼 「しかし、今日は登城される例日ではなかったと存じますが」
慶永 「例日など、どうでもよい。国家の大事だ。なお、そのほか将軍の跡継ぎの件もお話しなければならない」
直弼 「跡継ぎの件は既に決定していますが、いまさら何を」
慶永 「ともかく、もう一度城中で話を続けよう」
直弼 「本日は特に御用が多く、また例日でもない登城面会は迷惑ですから、お断りいたします」
慶永 「待て、条約の件、跡継ぎの件、いずれも国家の重大事である。日を改めてなどという問題ではない。登城の時刻を延ばして、ここで議論したい」
直弼 「登城の時刻は規則があり、そのようなことは出来ません」
慶永 「それは小役人の言うことである。この大事のとき、大老の登城が少し遅れたとて、怠慢にはなるまい」
(慶永、直弼の袂をつかむ)
直弼 「大老なればこそ、遅れることは出来ません。一刻登城が遅れれば、天下の政務は一刻遅れます。袂をお放しください。これにて御免」
(直弼、慶永の手を扇子でビシャリと打つ)
慶永 「掃部守、待て」

この二人のやり取りは、実話である。
明治時代に入って、慶永が昔を振り返って語り残したものから、明治大学教授渡辺保氏や東大教授の小西四郎氏らが口語体にしたものである。多少、僕の脚色もあるが。

この後、慶永は直弼の後を追って強引に登城した。
この日、示し合わせていたのか、徳川斉昭、息子で水戸藩主の慶篤(よしあつ)、尾張藩主の慶恕(よしくみ)も押しかけ登城をして直弼を攻撃しようとしたが、なんらの成果も得られなかった。どころか、この押しかけ登城を行った御三家の藩主や親藩の大名までを、大老は処罰してしまった。隠居・慎み、登城禁止などである。(安政5年7月)

大老井伊直弼は、幕府独裁制の維持強化、政敵の一掃をはかって、批判するものたちをことごとく処分したが、これによって、吉田松陰や橋本佐内などが処刑された。また、あの西郷隆盛まで、幕吏に追われて逃げ切れず、薩摩藩からも見放されて、錦港湾に清水寺の勤皇僧月照と抱き合って身を投げた事実がある。たまたま、西郷さんは体力があったので蘇生できたのであるが、月照は亡くなってしまった。
大老井伊の圧政に対して反対派は、大老を取り除く戦略を立て、有名な万延元年3月3日の桜田門外の変へと発展するのである。

長々と歴史のことを書いているが、でも、新選組を語るに当たって、この辺りの経緯を知っておかないと、正確性を欠いてしまうからだ。
後に浪士組募集を主張した清河八郎の運動や芹沢鴨、更には近藤勇の主義主張、京都で横行した天誅の原因なぞの原点がこの辺りにあるからである。

文久2年7月から京都で始まったあの『天誅』は、九条家の公家島田左近を斬ったことに始まる。島田は、長野義言(主膳)に従って安政の大獄に加担した人物だった。犯人は、薩摩藩士の刺客で有名な田中新兵衛である。この当時の著名な刺客としては、他に土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎(げんざい)がいるが、現代のアニメ、「るろうに剣心」のモデルになったのは彦斎だと言われる。彦斎は、元治元年7月、佐久間象山を斬ったことで有名である。
薩摩や土佐の勤王浪士たちに雇われたこうしたテロリストによって、主に京都で殺人劇が行なわれたのであるが、天誅の対象になった人物のリストは3つの観点から作られたといわれる。
一つは、開国を唱える人や外国との通商で財をなしているもの。
一つは、安政の大獄に手先になって動いた人物。
一つは、皇女和宮の降嫁に加担した公武合体派の公家や役人など。

この天誅に対し、当時、身に覚えのあるものたちは安心して京都で生活が出来ず、続々と都を出て疎開していったという。また、表向き、謹慎している様を見せるために官職を辞して落飾までする公家もいたわけで、当時、いかに天誅を恐れていたかが想像できる。
九条関白もやはり、落飾して京都郊外へ疎開していたのだが、公卿の中山忠能(ただやす)も脅迫されていて、次のように言った。
「彼らは長薩両藩士でなく、浮浪烏合のもので勤王問屋といわれている。まったく勤王を名として、今日を暮らし、その説が追々に伝染している」

 僕は、自分の著書の中で、土方歳三自身に次のような台詞を言わせたことがあった。
 「捕らえてみれば、勤王を語る夜盗強盗の類(たぐい)が殆んどで……」

実際、強盗たちは次のような台詞を言っては強請りたかりを繰り返した。
「俺たちはお国のために、一命をなげうって攘夷の運動を行なっているんだ。お前らは、夷狄と通商を行って不当に利益をむさぼっている。天に代わって成敗する」
といって商家を脅迫し、金を脅し取るというものだ。
土方歳三たちが出動して捕らえてみれば、コソドロだったなんてことが多かったはずである。

今、京都の三条小橋のたもと池田屋のあった付近に、高瀬川沿いに佐久間象山と大村益次郎の遭難現場として碑が立っているが、あの辺りが天誅のメッカ、中心地であった。
幕府の治安部隊としては当時、京都所司代があり、町奉行所があったのだが、手に負えなかったのか、文久2年12月に臨時に京都守護職を置いた。この任に当たったのが会津藩であった。24万石の大藩であった会津藩をもってしても、天誅を取り締まれなかった。
不思議。
大きな警察組織や軍隊のような組織は、返って、波状的・局地的なテロ行為には向かないのかもしれない。これは、現代も同じだ。
文久3年2月の中旬に、足利3代の木像が首から切り取られて四条河原に晒首にされると言う事件が起きた。このタイミングで、江戸から浪人共234名が上洛してきた。
本来なら、京都守護職の任にあった松平容保が出動しなければならないはずだが、妙案が浮かんだ。
上京したこの一団は、浪士組結成の首謀者清河八郎の造反で、直ちに江戸へ帰されることになったのだが、うまいことに、腕っぷしの強いのが24名ほど壬生に残ることになった。

つづく
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プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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