村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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近藤・土方の見た幕末―――4

この4月から始まった競馬のG1レースは、ちっとも馬券が当たらない。--桜花賞、皐月賞、天皇賞と。
そもそも、穴等の僕なんだけど、歯車がかみ合わない。先日の天皇賞も、2着に来た福永祐一騎手騎乗のエリモエクスパイヤという馬、超人気薄だったから大穴馬券になった。その馬を僕は買っていたのに、1着のメイショウサムソンにからませていなかった。―――アホか。馬単で2万5千円をつけた。
トホホ!

物事、うまくいかなくなると、歯車が悪いほう悪いほうへと回転してゆくらしい。
会津藩主松平容保は、藩内の大方の反対意見を振り切り、将軍家の意向を受けて、京都守護職の任についた。だが、このことは、会津藩の重鎮たちが危惧したように、西国の外様大藩に恨みを買うことに繋がってしまった。だから、京都では、ことさらそうした国の藩士たちとはトラブルを起こさないように注意を払っていたのだが、どうしても衝突の場面が出来てしまう。

元治元年6月10日、京都東山清水寺近くの料亭明保野亭で起こった事件は、そうした大藩同士の面子の張り合いから起きたものである。
この事件は、僕の本の中で、冒頭に書いた。
武士道について考えるには格好の材料なのだが、会津藩と土佐藩の両方の面子が立つ形で事は処理された。
土佐藩の麻田時太郎は、明保野亭で昼飯を食っていたところを会津が送った臨時の新選組隊士柴司に、後ろから槍で刺された。浅傷ではあったのだが、武士にもあるまじき恥辱として即切腹の沙汰が降りた。
一方、会津藩側は、止めを刺さなかったという理由で、柴司を追って直ちに切腹させた。
大した落ち度もなかった二人の若者だったが、両方の藩の面子が立つ形で事は収められたのである。武家社会が、成り立ってゆく上では、必要なことであり、封建社会の犠牲者である。
土方歳三は葬儀に出席して、大泣きに泣いた。武士道や武家社会というものにつまずく最初の事件であったと、僕は書いた。

だから、土方は決意した。「俺は俺流の武士道を貫く」と‐‐‐。
だからって彼が、新選組という組織の中でどれだけ立派な武士道が貫けたかといえば、そう威張れたものばかりではなかった。組織の維持、発展のためには、理不尽なことも敢えて執行しなければならなかった。その最たる裁断が、「近藤の非行五箇条」を松平容保宛に提出した6人の隊士の処断である。
6人連盟の書面であるが、代表者は永倉新八であり、原田や斎藤の名もあったのだが、実際に処刑(切腹?)されたのは、葛山武八郎という隊士だけである。元治元年9月6日であった。近藤はこの2日前に江戸へ旅立っているから、この裁定は土方によるものだが、どういう訳か、近藤の江戸行きに永倉が伴っている。
近藤の、この江戸行きは、その目的がいまひとつはっきりしていない。大方の意見は、将軍や老中に攘夷を促すために、自ら江戸に下って運動しにきたと言う人もいるが、隊士募集も手がけていて、伊東甲子太郎一派もこの時に獲得してきている。
また、近藤たちは、京都から江戸まで、この時たったの4日で到着している。何故、そんなに急ぐ必要があったのか。その上、江戸に到着早々、松本良順宅を訪ねている。

3ヶ月前に、京都三条小橋ヨコの池田屋で派手に立ち回りをして、全国にその名を知られた新選組の隊長が、当時、幕府第一の開明派と言われていた松本の家に直接やってきた。家族たちは、てっきり、斬りに来たと思い込み、震え上がった。
この時の様子は、僕の本に詳しく書いてある。

新選組の専門家の中には当時、老中職に松前藩の藩主崇広がいたことをあげている人もいるが、いくら永倉が松前出身だからって、お殿様に進言したり、お目通り出きるほどの地位や立場にあったのか。
不思議なことである。

新選組は、実力主義の組織である。
腕っぷしが強ければ、伍長にも上がれ、うまくすれば副長助勤にも出世できた。給金も上がったし、臨時のボーナスも貰えた。だが、最高権力者土方歳三のさじ加減も勿論あった。

文久3年3月、会津藩は、京都守護職という、損な役回りを引き受けてしまったという失策をなるだけ軽く収めるために、江戸から上がってきた浪人共を手先に使うことを考え出した。この連中に『逆天誅』『逆テロ』をやらせて、攘夷の志士たちの活動を抑えさせ、できれば息の根を止めてしまおうと考えた。
翌元治元年6月5日におきた池田屋での事変は、新選組の見事な活躍に、幕臣としてお抱えするまでの決意を幕府の閣僚たちに固めさせるのに十分であった。
この事件と翌月におきた『禁門の変』あたりを頂点にして、京都守護職や新選組は、わが世の春を謳歌したのであり、見廻組も含めて京都での存在、威厳、振舞いなど、恐怖の軍団としての地位を築いていった。

元来、京都人という種族は、排他的で気位が異常に高い。
と、言われている。
これは、京都ばかりでなく、函館でも感じた。もしかすると、この両市、我国を代表する観光地であり、殆んど何の苦労も営業努力も無しに観光客がやってくるという共通点がある。自然、サービスは低下し、無愛想である(そういえば、イタリアも)。
京都に行った観光客は、自分が京都にたたずんでいるだけで大満足であり、都の香りによっている。花見小路で舞妓さんに出会っただけで感激であって、それがお話しでもしようもんなら、一生の出来事のようだ。

今から、約4年前京都、函館、会津若松、日野で【新選組サミット】の準備会を京都市役所で開催したことがあったが、2回開催して分解してしまった苦い経験がある。

その原因だが、大きいものでは二つある。
一つは、先の両市に共通して、集客に余裕が感じられたということである。普段から、観光事業は忙しい。だから、余計な仕事を、わざわざ増やす様なことはよして欲しいというのが、本音であったように思い出す。
こちらは、せっかく「大河ドラマ」なのだからという理由であったが、あちらは、義経やっても、戦国ものやっても、幕末ものやっても毎年が大河なのである。
成る程、そうだ。
排他的という意味では、京都の中でも争いが始終行なわれている。以前もここで書いたが、栗塚さんが嘆いておられた京都府と京都市の仲の悪さである。東京都庁の役人なぞは、地方の市区町村に対して実に高圧的な場面が多いが、京都は逆で、市のほうが威張っているといっていた。尤も、京都府の財政収入の殆んどが京都市なのだから、仕方ないガーーー。

京都人を一概に論評は出来ないが、概して、地方の人間を見下す傾向にあるらしい。
もう千年以上も前から、京都へは『のぼり』であり『上洛』なのである。江戸へは『下る』のである。だから、京都・大阪あたりを総称して【上方】という。
こうした風潮の中で、新選組や会津の人たちは、京都人にどう迎えられたのか。あまり良い印象でもなく、歓迎されてはいなかったのではないだろうか。
もう1つは、会津若松市の観光課長が、高知市からやってきた担当者に毒づいたからだ(高知市は、竜馬つながりで、オブザーバーで来ていた)。
「あなたがと一緒に、お祭ごとは出来ません」ということだった。
う~ン。そこまで言うか。
当時、京都市役所の会議室で、京都府の伊藤さんという観光課長と顔を見合わせたのを、思い出した。二人でこの話(新選組サミット)を進めてきたのだけれど、まだ機が熟していなかったのかと、がっかりした。
つまり、会津から言わせれば、長州や薩摩、土佐なぞは恨み骨髄、憎き敵(カタキ)であって、その怨念をいまだ引きずっているという。おじいちゃんやおばあちゃんから昔の話を聞かされてきて、許せる相手ではないというのだ。
会津の担当課長は、国へ帰って、土佐と一緒にお祭をやることになったなどとは、到底言えないのだった。

つづく
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コメント
カラヤンさん、お久しぶり
そう、日野では、新選組の子孫の方々が、自分たちが子孫であるといえるようになったのは、ツイ最近のことです。
そのくらい、皆さん黙って過ごしてきた。
明治以降、賊軍とされたこの辺の人たちは、隠れていないと、逮捕されかねなかったからですね。
だから、新選組関係の遺品なぞは、大分処分されたらしい。
例の、土方歳三の『日記』も、あんなもの見つかったらヤバイから、燃やしてしまったか、隠したか。
僕は、どこかに隠されていると思います。それも、日野宿本陣のすぐ近くに。

今朝の新聞記事に載っていました。
佐藤家から、歳蔵が使っていたと思われる『笛』が発見されたと。佐藤福子さんが、その笛を手にしているところが、写真で載せられていました。
本当に、歳三が吹いたのか、ちょっとわかりませんね。
だって、彼が笛を吹いたなぞ、これまで、聞いたことがない。長男の為二郎が三味線を弾いていたのは、有名なことですが、歳三の笛の話は、誰だってはじめて聞いた話ですね。
面白いとは思いますがーーー。

おっと、そうでした。まだ140年程度の経過ですから、日野あたりでは、まだ神経質ですね。
本当のことでも、子孫として言って欲しくないことだと、小説に書いても、叱られたりしますよ。
出入り禁止にされたりね。
僕も、気をつけてはいるのですが、ツイ、本音を言ってしまうこともある。
本当に、危ないのです。

でも、こういう現象は、賊軍側にその話が多いですね。
官軍側には、『先祖の名誉にかかわる』とかいって、怒ったなんて話、聞きませんからね。

後世の人たちは、西郷が西南戦争で、武士階級の最後の抵抗を示したなんて、無責任に言っていますが、「旦那様はそんな人じゃなか」と、憤っていた奥方のイトは、黙っていました。ただ、上野の銅像が本人に似ていないといって、除幕式で文句をつけたそうだがーーー。
だから、長州でも薩摩でも、土佐の坂本家でも、子孫が文句をつけたなんて話し、聞いたことがない。

まだ、当分、我慢のようです。

村瀬彰吾
2007/05/07(月) 21:58 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
そう言えば
大河ドラマで
西田敏行(郡山出身)さんが西郷隆盛を演じた時
地元ではブーイングが(仇を演じるとは何事か)あったとか
100年ちょっとではまだまだ歴史上の出来事になりきれない
のでしょうかね。
もっとも、忠臣蔵の地元同士の手打ちも
つい最近のことですからね。
感情と言うか、遺恨と言うか
ほぐれるまでには相当な時間を要するんですね。
今生きている人が直接関係したわけでもないのに・・・
2007/05/07(月) 08:22 | URL | カラヤン #-[ コメントの編集]
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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