村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

土方歳三の武士道は「オレ流」だった

近藤や土方が幕府直参、正式に武士として迎えられたのは、慶応3年6月10日からである。近藤は見廻組与頭格、土方は見廻組肝煎格で70俵5人扶持であった。
では、それまでの身分はと言うと、新選組は京都守護職のお預かりの身分であり、浪人であり、浪士組であった。
よく、新選組は武士の集団であり、武士としての規律、行動を隊士達に強要していたと伝えられるが、武士になれたのは徳川が大政を奉還し、政権が瓦解する4ヶ月前のことである。
文久3年3月から京都で仕事を始めた壬生の浪士たちは、直参に抱えられるまでの4年余りの間、どのような身分意識で仕事をしていたのであろうか。

新選組は、近藤にしろ土方にしろ沖田、井上にしろ、試衛館道場の大黒柱、四天王が多摩の百姓上がりであって、天然理心流といってみたところで、世間からは田舎もんの集まりと下げずまれてきていた。
だから、幕府は無くても良いと思われる京都見廻組を、敢えて創生し、守護職が大藩、所司代が中藩、見廻役が小藩という三重構造で治安維持に臨んだ。
大事な京や大坂の治安を、烏合の衆の新選組のみに任せておくわけにはいかない、武士の身分を持った者たちで市中取締りを行なうという訳だ。
元治元年4月26日のことである。
近藤を始め、命を張って不逞浪士の取締りを行なってきた新選組の隊士たちは、これ以降、随分と悔しい思いをさせられてきたに違いない。
局長近藤勇は、新選組が単なる殺人剣の集団と世間から非難されないよう、頼山陽の日本外史を座右において毎日読書し、書を書いて教養を身につけることに専念した。また、幕府や守護職の高官や公家らと積極的に交わり、自己研鑽することも欠かさなかった。
一方土方は、「俺たちは武士じゃねえが、あいつらが震え上がるような極限の規範を作り、それを実践する事によって武士以上に武士らしい軍事集団を作り上げる」という厳しい戒律で臨んだ。
だから、新選組は敵を葬った数よりも、隊内での粛清の数のほうが多いのだ。

土方歳三の武士道とは、修行僧の自己規制とよく似ていて、外に向けられたものというより、内に秘めたもの、戒律の厳しさを自分の体内に求めたものといえよう。それは、自分の生き方そのものにつながっていく。
少なくとも、歳三自身は自己の信念を曲げなかった。また、その信念に従って箱館まで貫きとおした。
近藤は学問をしたがために、教養を身につけてしまったがために、変化したがった。
土方はこの変化を嫌った。ことあるごとに諫言してきた。
だが、とうとう、このことが二人の生き方の違いを生む最大の要因となってしまった。

土方は、己の武士道精神とは違った、藩や主君、時の権力者の都合によって自分の運命、生命が決まってしまうという武家社会の矛盾に反発した。
元亀天正以来の武士道とは、要するに、“御家”の安泰を図る事によって手柄を立て、己の出世を優先させた『出世競争』なのだ。
そうはいっても、出世で最も大切なのは、手柄を立てることではなかった。
いかに時の権力者にとりいるかということであり、今の社会となんらかわるところは無い。
土方歳三がこのことを痛切に感じたのは、元治元年6月10日に起こった「明保野亭事件」であった。

次回「明保野亭事件」へ続く
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






リンク
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カテゴリー
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新の記事
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近のコメント
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード