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のっけから、僕の本のことで恐縮だが、あの『人間土方歳三』の中の65ページに”輸出と不平等条約“という小見出しがある。
この中で、この辺り(日野・八王子辺り)には桑畑がたくさんあって、安政年間以降、生糸やお茶などの輸出で大儲けした人たちがいたことを書いた。それに関連する記事が2月14日の『アサヒタウンズ』に載っていたので、写真掲載させていただく。

久しぶりに、自分の本を開いて、その部分を読んでみた。少し長くなるが、こんなことが書いてあった。
ところで試衛館の面々が、何故こうも夷(外国人)を嫌ったのであろうか。
開国以来様々な現象が起きた。日本の富、特に金銀が海外に持ち出され、外国人、日本人を問わず悪徳商人がはびこっている現象に腹が立っているのは当然だが、最大の不満は物価騰貴による庶民の生活苦であった。
試衛館は食客も多く、毛並みの良い弟子がいるわけでもないので実入りが少ない。台所は火の車で、明日の米がなかったことも一度や二度ではなかった。
安政6年から慶応元年までの諸外国との取引商品を見てみると、輸出のトップが生糸で、その他には、茶・銅器・海産物・薬品・油・漆器などである。
輸入品は綿糸・綿織物・毛織物・鉄器類・砂糖・薬草類であり、別枠として軍艦・汽船・大砲・小銃などの軍事物資も扱われた。
………
日米通商修好条約が結ばれたのは、安政5年6月19日であったが、実際の取引開始は翌6年の6月2日と定められた。
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例えば生糸であるが、外国商人たちは争って品質の良い日本産の物を買いあさり、これまでの日本の市価よりもずっと高値で買い入れた。百斤200ドル程度のものが、開港と同時に500ドル、さらに800ドルと跳ね上がり、輸出のうまみに味を占め、国内には眼も向けず、輸出に流れて買占めが行なわれたのは当然の成り行きであった。
蚕卵台紙などは、文久二年に壱分銀二枚であったものが、後になって三、四十枚にも跳ね上がった。
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洋銀1000枚もってくれば運上所で三千枚の壱分銀に換えることが出来る。これを小判に交換すれば、(壱分銀は四分の一両であるから)、750枚の小判が手に入る。
これを外国に持っていけば3000枚の洋銀に換えられるのだ。ただ交換するだけで三倍の利益に跳ね上がる。まさに「濡れ手で粟」のボロい儲けである。商人ばかりでなく、外国の官吏や来航してきた軍艦の乗組員たちまでが、盛んに壱分銀の交換を要求したのも当たり前のことである。
ともあれ、尊攘の志士たちや近藤を始め山南、藤堂など試衛館の尊攘派は、日本の貴重な財産が外国に奪われていっていると憤激したのであり、金貨を外国人に売るものを国賊であるとして、斬殺の対象としたし、外国人すべてがまた対象となっていたのである。
輸出品を外国に売りさばけば、国内で問屋に卸すよりはるかに利益が出るわけなのだから、生産者たちは、こぞって横浜へ直接品物を送ってしまう事態が発生するようになった。すると、これまで江戸へ入ってきていた品物が少なくなり、品物不足になってしまった。
(いま、国道16号線が東京を囲むように横浜から八王子を通って埼玉県に入り、千葉の木更津辺りまで通っているが、八王子から横浜へ向かう街道を地元では「絹の道」とつい最近まで読んでいた。この「シルクロード」の一部は、昔のままに残されているところもある。………八王子はこのため、別名「桑都」とも呼ばれ、現在でも桑の木が街路樹として植えられているところもある)『アサヒタウンズ』の本文には、こう書いてある。
(引用)
生糸は当時の輸出の花形商品。信州や甲州から運ばれた生糸は、いったん八王子に集められた。鑓水はその中継地。ここから鑓水商人と呼ばれた糸商人の手で、横浜へと運ばれた。
鑓水商人は富を蓄積、威勢を振るった。だが、その繁栄はあっけなく終わりを告げる。(引用終わり)

これを読むと、八王子や日野で生産された生糸ばかりでなく、関東甲信越あたりで生産されたものが江戸に入らないで、直接鑓水へやってきて横浜へ配送されていたと推測できる。
このように、日本の貴重な富が海外へ流出していたのだった。生糸にしろお茶にしろ、もともと、国内で消費する分しか生産していなかったのだから、海外へ大方流れれば、国内が品薄になって価格が暴騰するに決まっている。それが、米、味噌、醤油などの生活必需品全般にまで及んだからたまらない。
試衛館の食客たちが、異人斬りを考えても不思議はないし、近藤さんのルーツはこの辺にあったかもしれない。
京都の治安維持、見回り、攘夷の志士狩りに奔走させられていた新選組に、不満を抱いていた由縁である。
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