村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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江戸では、“生ごみ”とそれ以外で分けられた

前回、江戸のごみ処理に関する問題を5問出したところで、終わってしまった。
第1問の正解は、ウの「暗闇坂」。

徳川幕府が開かれたのは1603年で、東海地方(駿河、遠江、三河)を根城にしていた徳川家康は秀吉の命令でいやいや江戸へやってきたのだろう。でも、決まった以上は、そこを居城にして、そこから天下を狙う、獲るという執念をもったに違いない。
江戸を立派な城下町にするために、家康は都市計画の専門家と相談しながら、街づくりを計画していった。

家康の最大の悩みであり、関心事はなんだったのか、それは一つ。
一刻も早く、北条の薫陶を受けた人民たちを、徳川へ引きつけることであったに違いない。北条は、早雲以来五代に渡って約100年の統治の間、三公七民や愛民政策など領民のための善政を行なってきていたから、農民たちからは絶大な支持を集めていた。
その北条の民を、徳川の民へと変えなければならない。また、江戸城の西側には武田の残党も多く存在していたので、彼らに対する手当ても考えなければならなかった。
だから、家康は基本的に、北条の行なった柔軟で平和な政策を引き継ぐことを選択したのである。
実際、江戸に本拠地を移してから行政の制度や人々の生活面まで様々、やらなきゃいけないことがたくさんあたが、最も緊急なのは『水』をどう調達するかってことだった。その他、町並みの形成などのこともあったが、ごみの処理も、都市計画と関連して重大なことになっていった。
さて、そのごみのことだ。

第1問の正解『暗闇坂』は、今のJR中央線の市ヶ谷と飯田橋の間の北側に位置していた。電車の車窓から眺めると今は釣堀になっているお堀が線路に平行してあって、その向こうが堀に向かって緩やかな丘陵になっているのがわかる。東京国際女子マラソンで高橋尚子が、最後の坂で失速したのを覚えている人も多いだろう。この辺りが鷹匠町と砂土原町で、ごみの捨て場所だったのだ。近藤たちのいた試衛館からは歩いても、30分とかからないところだ。(余談だが、僕は成城高校に通っていて、そこは試衛館のすぐ隣りだったから、通学は市ヶ谷駅から自衛隊横を通って大日本印刷を横切って、試衛館方向に歩いていた)


『紀尾井坂』は、紀伊家と尾張家と井伊家に面している坂で、今のホテルニューオオタニの横にある。
『南部坂』は忠臣蔵の名場面で、「南部坂の別れ」で有名である。大石内蔵助と浅野内匠頭の妻で落飾した瑤泉院の最後の別れの場面を描いたものであるが、ここのところでは、ドラマの作り方にもよるが、僕はつい落涙してしまうほど好きなシーンだ。ただ、この南部坂、二つあって一つは赤坂、もう一つは広尾の有栖川宮公園脇にある。よくわからない。
『神楽坂』は、正解の暗闇坂から飯田橋よりに行ったところにある。今でも少しはいるらしいが、芸者さんが多くいたところである。有名だから、知っている人も多いだろう。

第2問の正解は、エの『表長屋住人』だ。

ごみ処理の料金は、「芥取賃」とか「芥捨賃」と言った。町が負担することになっていたのだが、主に表通りの住人が負担した。だから、裏長屋の住人は払わなくて済んでいたのである。でも、家賃の中に含めて取り立てていたとも考えられるが、概して、持てるものが負担するという考え方だったのだろうか。
料金は、間口一間当たり銀一分(約167円)と決まっていた。間口5間ほどの(約9m)大店で835円ほどだ。

またまた余談だが、
僕がリサイクル推進課長をしていた頃、ごみの収集方法の改革で、日野市内を流れる(歳三が自慢した)淺川を境にして北側を月・木に可燃の収集日に、南側を火・金に収集日に決めたことがあった。(これは、今でも変わらない)
最近発見したのだが、江戸でも似たようなことをしていた。これは、問題2の質問文の中でも述べてあるが、徳川幕府は、ごみの収集日を日本橋を基準にして、月のうち2のつく日が北側、3のつく日が南側だったらしい。

問題3の正解は、『生ごみとそれ以外』だった。

ごみ処理業者は、ごみ取船に積んだごみをそのまま永代島へ運んだのではなく、船の中でなまごみとそれ以外に分けていた。
なぜ?
肥料にできるごみを「肥あくた」といって、農村地方(行徳方面か)からやってきた船に売り渡されていたからである。
当時、なまごみは畑の肥料になるので、金になった。今でも、そうなればいいんだけれどね。

問題4の正解は、『ものの80年』である。

何回か前のブログで、トトロの里の所沢が産廃街道になってしまっている、と書いたことがあった。
まことに残念至極だが、こういう不法投棄をする不届者は江戸時代にもいた。
先の芥取人が船に積んだあと、市中の川岸に積んでおいて、夜中にこっそり川へ投げ込んでしまうというものである。また、途中で捨ててしまう業者もいた。そこで幕府は、『永代築地芥改役』という役を作ってごみ全般の監視役を命じた。それでも、なかなか不心得物はなくならなかった。そこで、ごみの不法投棄で、環境が悪化し、水路がごみで埋まって船の航行にも支障をきたす問題も起きていたので、幕府は、享保3年2月(1718年)「塵芥捨棄令」を定め、ごみを堀や川へ不法投棄するものを厳罰に処することにした。

そうした一方、長年ごみを捨て続けてきたので、永代島は満杯になってしまった。そこで、永代島に変わるゴミ捨て場として、享保15年3月(1730年)新たな捨場として『深川越中島』を指定した。ここは、隅田川河口にできた寄洲だったが、残土の捨場であった。
ところで、長年捨ててきた永代島はごみと残土でできた土地造成で、多くの新田ができたし、一部は市街地になった。大名屋敷まで建設された。
永代島にごみを捨てるという政策は、江戸の城下町を増大させ、多くの労役を生んだ。

問題5は、『河村瑞賢』が正解である。

多くの人々は、お盆になると、墓参りをしたり魂祭をするなどして、先祖の霊を慰め、冥福を祈った。それぞれの家で魂棚を作って位牌を置き、供物をのせて先祖の霊が帰ってくるのを待ったのである。
僕の母親も、毎年お盆になると玄関前で、先祖の霊を迎えるために焚き火のようにしたあと、その周りをお経を上げながらぐるぐる廻っていたのを覚えている。あれを迎え火というのだろう、茄子や胡瓜に割箸を刺して、動物の形にしていたのが面白く、なんとも子供心に興味深かった記憶がある。
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コメント
南部坂雪の別れ
二つの南部坂が、やはりあったのですか。
教えてくれて、どうもありがとうございます。
胸のつかえが取れたような気がします。

ところで、大石と言う人、立派な城代だったといわれていますね。
幕末で言えば、大久保利通のような人であったかもしれません。殆んど、すべてのことを読みきっている。
自分が今、何をしなきゃいけないかを熟知していて、一歩一歩確実に歩んでいける人。
他人から見ると、まどろこしい。

大久保は、薩摩の隼人たちがいきり立って「突出じゃ」と叫んで
テロ活動するのを、身体を張ってとめました。
「一藩勤皇でなきゃダメじゃ」と。
「これからは、一人ひとりの単独行動では、ことはなりもはん」と、
言ったでしょう。
藩主の父親で、実権を握っていた久光が、囲碁が趣味であるのを知って、自分も習い始めた。
そして、久光に近づいて、藩をあげての倒幕の路を切り開きました。あの保守的な久光をその気にさせてしまうのですから、大変な人物です。

そして、そのことが徳川の崩壊へとつながっていきました。
こうした大久保の気の座った大きさと、大石の大願成就までの道のりとが、僕は重なるものを感じます。
大石は、それでいて西郷のように慕われたところもあって、いろんな英雄的な要素を兼ね備えていた人物だったかもしれませんね。
だから、日本の歴史上、まれに見る、ありえないような快挙を成し遂げた。

その大石が、瑤泉院に最後のご挨拶を交わしにお伺いしたと言うのは、ありえる話ですね。
そこが、南部坂であったかどうかは、わかりませんね。
そして、用心深く、連判状をご仏壇にとは言わなかった。あくまでも、会計報告として形作ったと言うのもわかります。

今晩、念願の討ち入りを決行いたします、と言いたかったでしょうね。
こういう、用心深さ、奥ゆかしさ、鉄心のような意志の強さが真の武士道なのかもしれません。
大石の、忍耐強さに、僕は感動してしまう。何か、物静かなものを感じるんです。


2008/04/07(月) 23:26 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
南部坂
赤坂の南部坂は江戸初期に
南部藩の中屋敷があったことに由来していますが、
麻布の南部坂も
もちろん南部藩に由来しています。
明暦2年(1656年)に浅野家との屋敷替えがあった為です。
それならいっそのこと
坂の名も入れ替えればよいものですが、
浅野坂とか赤穂坂とはなっていません。
一度ついた地名を変えるのは混乱を招くからなの
でしょうか?
でもそうなら麻布の坂が南部坂となるのは
おかしいですね。
麻布の坂はそれ以前には
名が無かったのでしょうか・・・
その内に有栖川宮公園にある
都立の中央図書館にでも行って
江戸の古地図でも見てみましょう。

さて村瀬さんが好きだと言われる
「南部坂雪の別れ」ですが、
大石が預かったまあ簡単に言うと運動資金の帳簿を
瑤泉院付家老落合与左衛門に預けたことに由来する創作と
言われています。
たとえ大石が南部坂の屋敷を訪ねても瑤泉院には会えなかった
筈です。
何故ならば瑤泉院が居住していたのは今井坂の屋敷であったと
言われているからです。

ところで瑤泉院は伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児の赦免に尽力し、1706年(宝永3年)8月に赦免されていますが、
これには将軍家宣の側室であった月光院(7代将軍の母)の協力があったと言われています。
月光院は大奥へ上がる前に瑤泉院付き侍女をしていたとされて
います。
いや~歴史って奥が深いですね。
特に裏面史といわれるものは面白いですね。




2008/04/07(月) 08:24 | URL | Karajan #-[ コメントの編集]
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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