村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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講演体験談 暮らしが織りなす地域の美―――3

「近藤さんが攘夷の志士だった」と、書いたが、この志士にはいろいろなパターンがあって、皆同じではない。

その話の前に、『ラーメン』のお話をしたい。
僕は、最近、京都に行くと河原町三条北のラーメン屋に行くのが常だった。『赤鬼』という屋号だったように記憶している。今回も行ってみた。
すると、店の感じは赤備えで(まるで井伊の彦根藩のように)変わらないのだが、店名が変わっていた。今度のは、『ラーメン魁力屋』という。
ここは、関西方面に9店舗構えているらしいが、相変わらず、僕の好みなのだ。
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醤油系の普通のラーメンを頼むのだが、結構背脂がきつい。僕は、この背脂のくどいのが嫌で、だからとんこつは好みではないのだが、ここのは美味い。
しつこくないのだ。
それに、「背脂の量を少な目」とか、「九条ねぎ多め」とかを最初に誰もがリクエストを言わされる。注文のときに、必ず聞かれるのである。様々なラーメンのメニューが用意されているが、僕は、いつもフツーのラーメンに葱多めを頼む。この葱がうまい。あの九条葱というやつは、いくら食べてもしつこくないし、つんと来ない。それに、脂っこいスープを程よく中和してくれて絶妙な味になる。
ここは、トッピングにいろんなものがあるが、そんなもの入らない。何しろ『麺』が美味いのだ。ストレートな麺で腰がある。のど越しが良くて、するすると入っていく。
皆さん、京都に行ったら、是非寄ってみたらいかが。
河原町通り沿いの角にあるからすぐわかるよ。
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僕は、今回2日続けていった。
「また、来たんですか」
そこの従業員はみな、胸にネームの入ったホルダーをブル下げていて、『かわちゃん』という愛想の良い20歳ぐらいの娘さんにもう覚えられてしまった。帰りに、サービス券をいただいた。

      


さあ、本題。
『尊皇攘夷』とは、その字のごとく天皇を尊く敬って外国人を排斥するという考え方だ。当時、外国人は、鳥や猛獣にも劣る礼儀知らずの卑しい人類と捕らえられていた(夷狄)し、そう教えられてきた。そんな者たちを、この神聖なる神の国に踏み込ませるべきではないという思想だ。
孝明天皇自身が強く攘夷思想を持っていたのだが、何故かというと、この日ノ本で、長く保ってきた攘夷の形が自分の代で破れるのではと、強い危機感を持っていたからである。

でも、この思想には様々あって、
一つは、〈倒幕思想〉の尊皇攘夷だし、もう一つは〈佐幕思想〉の尊皇攘夷だ。同じ尊皇攘夷でも、徳川を倒そうという側と助けようとする側とでは大きな違いがある。
よく、「公武合体」という言葉が出てくるが、これも字の如く『公』と『武』が協力して政治を行なおうというもので、尊皇攘夷で佐幕派の近藤さんは当然公武合体論者であった。

もう一つは、尊王(尊皇)ではあるが決して攘夷ではないという考え方である。つまり、開国止むなしという思想である。この考え方もいろいろで、初期のころから(ペリーがやってきた嘉永6年以前から)諸外国の知識文明を取り入れるべきであるという人たちであるが、佐久間象山や勝海舟、おそらく篤姫の養父で西郷が心から尊敬する島津斉彬などもそうであったろう。
そして、最初は攘夷で外国人排斥の立場であったが、後に、思想変更した連中も大勢いる。
何せ、薩摩藩や長州藩、土佐などの勤王の志士たちの多くはこのパターンで、徹底して攘夷を貫いた人は少数派になってしまった。西郷だって大久保だって、小松帯刀だって、桂さん(木戸孝允)だって坂本龍馬だって伊藤俊輔だってみな変わった。薩摩と長州は、それぞれ外国と直接戦闘した経験があり(薩英戦争は文久3年で馬関戦争は元治元年であった)、相手の武器弾薬の威力をまざまざと見せ付けられて、積極的にその文明を取り入れるしかないという考え方にいち早く変わっていたのであった。

でも現実には、上から最下層の人々まで含めれば、維新前後は開国派はまだ少なかったと思われる。何故なら、それまで、日常生活の不便さや苦しさは、安政5年に始まったコレラなどの疫病も含めて開国や外国人のせいだと信じる人が多かったからだ。
だから攘夷がその当時の思想としては一般的であり、今のデモクラシーのようなものであったから、そう簡単には考え方は変えられなかったのである。

特に、江戸近辺に住んでいる人々は、古くから徳川様に対する報恩の念が強く、この体制がまさか変わるなぞとは思わないから、皆が保守的になっていた。
我国は、第2次大戦後60年続いた今の保守政権が、ここへ来てひょっとして変わりそうな気配でもあるが、このことも、今の日本の有権者がかなり勇気を出さないと、政権は変わりそうもない。ましてや当時は、260年も続いているのである。誰も、変わるなぞとは思いもよらない。

近藤や土方歳三が生まれて育った多摩地区は、徳川様の所有する領地であったから、そこに住む領民は他と比べて年貢も割引があったりして優遇されてきていた。その代わり、一丁事が起こったときには、中には将軍家のために命を投げ出す覚悟のあった人もいた。
そのために組織されたのが、八王子千人同心である。
普段は農民であったが、いつでも戦闘に入れるように剣術だけは日頃から欠かさなかった。その剣術剣法の中心が天然理心流であった。

近藤さんは強い攘夷思想を持っていたが、それでは何故彼がそのようになっていったのか。
現代に生きている僕らだって、いくらでも考え方は変わる。まして今は特に、様々な不手際があって政権が交代してしまうかもしれないほど、めまぐるしく支持政党が変わっている。でも、人々が何故そうのように変わったのかと、後年の人たちが詮索することはかなり難しい。
幕末当時に生きていた人たちが、どうしてそう変わったのかと推測するのはかなり難関だが、近藤さんの攘夷思想は終始変わらなかったが、生活苦から出ていると僕は思っている。

でも、普通には、文久2年、近藤さんは幕府指南役に決まっていたにもかかわらず、身分が農民だからという理由で見送られたと伝わる。だから、人一倍、武士の身分を欲したと主張する研究者も多い。
この、武士の身分が欲しくて、幕府募集の浪士組に応じたというのだが。
土方も沖田も永倉(松前)も藤堂(藤堂)も原田(伊予松山)も山南(仙台伊達)もみな、そうなのか。
違う。
だって、多摩出身の近藤、土方、沖田(敢えて)、井上はみな農民身分だが、他は地方出身の武家出身である。武士になりたいからなぞという理由はないと考えたほうが妥当だ。それに、脱藩して徳川に仕えるとは、かなり不謹慎である。永倉は終始、近藤とは肌が合わなかったらしいが、その理由の一つは、「俺は二君には仕えない」という思想からではないのか。
山南はもっとはっきりしていて、尊皇攘夷思想の激しかったと伝わる彼だから余計、徳川家のために働くという観念にはついてゆけなかったのではないだろうか。彼は、元治元年6月5日の池田屋にも出動していない。病気だったからだという理由だと僕も思うが、それだけでもないような気がしてならない。
藤堂平助は、試衛館時代からの同志である。
彼は、結局討幕派の伊東甲子太郎の一派に加わった。徳川の家来になる訳がない。
近藤だって、そんな甘っちょろい発想で応募したわけではないと思っている。近藤さんの尊厳のためにも、そう主張したい。
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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