村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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「直江兼続」と「松姫もなか」、そして「八王子城」と「滝山城」と、いろいろ関連して---5

―――兼続の魅力、その前に上杉謙信―――

「歴史」とは、時の権力者が書き換える危険をはらんでいる。
僕は、ずーと、そう思ってきている。
特に、わが国では、その傾向が強いように感ぜられる。
今、学校などで、尊敬する日本人としてどんな人が教科書に載っているの
だろうか。学校は、誰が尊敬できるかなんてことは教えない。ただ、起こった事件や事象にかかわった有名人を、時系列的に教えているだけだ。

むしろ、テレビなどで行っている偉人アンケートみたいなものから、影響を受ける人が多い。
NHKにしても民放にしても、大概が、1位・2位は織田信長と坂本龍馬である。
坂本は納得いくとしても、どうして信長なのかが僕は良くわからない。きっと、その当時の武将にはなかった信長の突出した部分を切り取って、魅力ある男に仕立てているのだろう。 

一方では、日本で、これまで起こった3大大量虐殺事件のうち2つまで、信長がしたことだと言っている人もいる。
比叡山の焼き討ちで門徒らを大量に虐殺した(2万人?)し、長島願証寺の一向一揆の女子供(3万人?)を、一気に焼き殺したなど、原爆投下と並び称されて忌み嫌われている。
だから、兼続や景勝に言わせれば、「徳のない人間」として、配下の武将に殺される羽目になるのだそうだ。

ただ、これらは、戦争状態だからやむをえないのだと主張する人たちもいる。ナポレオンだって、アレキサンダー大王だって、チンギス・ハンだってみな同じだと。
確かに。
でも、それで片付けるのか。だとすると、ヒトラーの行った虐殺も正当化される。

かつて、チャップリンは言った。
「一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ」

難しいなあ。
せめて、こういうことをした人を、日本の偉人百人のトップに祭り上げるのだけは、よしたほうがいいんじゃないかと――。

日本の偉人100人の中には、この信長のほか、秀吉や家康も当然入ってくる。
家康を評価する人は、260年の平和をもたらした英雄なのだ、と言う。秀吉だって、朝鮮に出兵をして失敗したからあんなものだが、朝鮮人や中国人を大量虐殺しても、成功してあの地を征服していたら、現在第1の英雄になっているはずだと言ってのける人もいる。

英雄とは、そういう尺度で測るものなのか。
それじゃあ、260年続いた徳川幕府を倒した西郷さんは、英雄なのか。
違う。
彼は、英雄なんかじゃない。
倒した後、良い国家を作り上げて初めて英雄になれるのだ。
彼は、自分の描いていた理想の国家、政治とはおよそかけ離れている現状を憂えた。こんなことなら、まだ、徳川の時代のほうが良かったのでは、と。
維新で死んでいった若者たちに、なんと申し開きできるのか。
「申し訳なか」と。
そして、明治十年2月、「政府に伺いたき議あり」として、立ち上がった。
明治維新のやり直しであった。
でも、歴史は、正しくこのことを後世に伝えていない。
なんと、“最後の士族の反乱”として犯罪者扱いである。
(最近やめた総務大臣が、このころの西郷さんを引き合いに出して、「野に下る」といったのも面白い。この大臣も、狼藉もの(士族の反乱)として片付けられた。片付けたのは朋友の総理だし、西郷を殺したのも朋友の大久保だった。)

「偉人」とか「英雄」に対する定義は難しいな。
直江兼続も、彼が亡くなってからの評価が思わしくなく、いまいちうだつが上がっていない。
兼続が尊敬し、傾注した上杉謙信や甲斐の武田信玄も評価が低い。それぞれ天正年間に死んでしまったし、「死人に口なし」で、残って権勢を振るったほうに分がある。

徳川時代に入れば、時代劇では、悪者と言えば「豊臣の残党」である。
戦争で負けると、「悪人」にされてしまうのである。
鳥羽伏見で負けた徳川側も、同じであった。明治に入って、江戸の時代とは、暗くて悪い時代だったと教えられた。仏像まで壊された。

さて、上杉鷹山が、直江兼続を後世に良い影響を与えた先駆者として再認識させてくれたのだが、その兼続は、一体誰を参考にして戦や様々な施策を行なったのだあろうか。
他ならぬ、上杉謙信である。

では、兼続は、上杉謙信からどんなことを学んだのだろうか。
まず、上杉謙信という人を振り返ろう。

謙信

《生い立ち》
謙信は、享禄三年(1530)越後春日山城生まれで、天正六年(1578)49歳で死没の人である。
 父は長尾晴景、母は虎御前(青岩院)と言う人。
 19歳で家督を継ぎ、越後守護代となる。21歳のとき、将軍足利義輝は越後国主の地位を認める。
 実子はなく、すべて養子や養女であるが、謙信の死後、景虎と景勝の間で相続争いが起こった(御館の乱)。

《川中島の戦》
謙信と言えば好敵手武田信玄を思い出す。川中島で5度戦った。
 一番有名なのは第4戦目で「八幡坂の戦」と言う。
この戦で、武田方の24将の一人で、優秀な軍師といわれる山本勘助が討死した。
謙信は、この山本勘助が策略した作戦をことごとく見抜いていたといわれる。

川中島の戦ーー第4戦

《信条》
 謙信は、「義」の立たぬ戦はしないという信条だったようだ。
 これは、侵略のための戦はしないというもので、どうしても必要な戦のみ、出陣すると言うものである。
 それこそ、毘沙門天に代わって、名代として「毘」の旗の下に結集するというのだ。

 好敵手として信玄を嫌っていたが、天正元年に信玄が死んだときは、食事の箸を落として号泣したそうだ。
「我、好敵手を失へり、世に復た、これほどの英雄男子あらんや」と。
 そして、家臣らが、いまこそ武田を撃つ好機なりと勧めたが、「義が立たぬ。他人の弱みにつけこむなぞ大人気ない」として、一蹴したそうである。

《敵に塩を送る》
 これは、「敵の弱みにつけこまないで、むしろ、その苦境を救ってやろう」と言う意味で、謙信の言葉である。
 武田の領地は、内陸なので塩が取れない。
 敵対していた今川氏真(うじざね)が塩止めを行ったことに対して、「戦いで決着をつけるべきで卑怯な戦法」として批判し、越後の塩を信玄に贈ったといわれる。

《手取川の戦》
 これは、当時天下を二分していた信長と謙信が、天正四年(1576)能登の手取川で激突したときのことだ。
 実際は、柴田勝家の軍勢18,000人と上杉軍の衝突だったが、上杉の圧勝に終わった。
これで、信長は、謙信の実力に恐れおののいたと言われる。

《謙信の死》
『天正六年3月15日に上洛』と、晴れて上洛の号令を前年の暮に発した後、3月13日に脳溢血で倒れたとされる。
49歳。
この後、信長も天正十年6月には本能寺で明智光秀に倒されるのだが、同じ49歳であった。

《謙信の合戦好き》
謙信は、生涯43勝2敗25分、勝率95,6%で生来戦闘の天才とも言われていた。

だが、謙信は出陣の際には必ず神へ「宣誓」してから行動したと言う。敵の罪状を並べ、決して“私心“からではなく、 “義侠心“からのものであるとした。

しかし、戦に何度勝っても領土は広がらなかった。
自国に帰るとすぐ取り返されてしまう、ということを繰り返していた。
「義」を通してばかりいて、領土欲がなかったとも言われているが、むしろ、農閑期のみの戦で、農繁期には兵たちが国に帰って鍬を握ることを許したから、敵にすぐ、取り戻されてしまったと言う。
兵農分離がされていなかったので、人々が飢えないようにするためには、仕方なかったのだ。

《卓絶した領国経営・経営の達人》
謙信と言えば、「戦の天才だが、理想主義者で内政は不得手」
と語られることが多いが、まったくの誤解だ。
彼は、類まれな政治手腕も有していて、現実的な経済政策も実施していた。

例えば、当時、水上交通の幹線であった日本海の舟運を掌握し、越後特産の高級麻織物、越後上布の原料である青苧(あおそ)を京都に運んで大量に売って巨利を得ている。
また、新田開発や金銀山の開発を積極的に行ってもいる。結果、戦国の越後は、全国随一の経済力を誇ったのである。

《「義」と「経済」》
謙信は、「義」を掲げて渦中の結束を固める一方、豊かさを保障することによって人心を掌握した。
人を動かすには、理屈ばかりではだめで、先ず第一に生活の安定を実感させることなのだ。
謙信の強さの源泉は、まさに「義」と「経済」を両立させる政治哲学にあったのだ。

ざっと、上杉謙信という人の人となりを並べてみたが、直江兼続はこの謙信から、どの程度の薫陶を受けていたのだろうか。

続きは、次回。
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コメント
簡単に言うと英雄とは
国が他国に侵略されそうになったとき
それを防いだ指導者と言うところじゃないでしょうか。
そう言った意味で言うと
鎌倉幕府、八代執権、北条時宗がそれに当たるんじゃないで
しょうか?
少し地味ですかね。
お隣の国では
秀吉の朝鮮侵略から国を守った
李舜臣が英雄と呼ばれています。
ですからわが国では、蒙古襲来の国難に対処した、時宗が
そうだと思います。
スケールを小さくすれば、謙信は越後の英雄、
信玄は甲斐の英雄と言えますかね。

逆に太平洋戦争当時の我が国の指導者は大非国民、逆賊です
ね。
我が国存続を危うくさせたんですからね。
実質的に統治権を凍結されましたからね。
こんな人達が英霊とか言われて、○○神社に神と祀られ、
こんな指導者のお陰で犠牲になったのに、名も分からない
遺骨が千鳥淵にあります。
なんか変ですね。

今、衆院選の真っ最中ですが、
国民を戦場に駆り立てるような指導者だけはご免です。
どんなに他国より無理難題を突きつけられようとも、
それをかわすのが国の指導者の役目のひとつです。

Karajan
2009/08/22(土) 16:38 | URL | Karajan #bEHVK4AU[ コメントの編集]
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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