村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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“松姫”と初代会津藩主“保科正之”

“松姫”と初代会津藩主“保科正之”
―――それは、お江与の方の嫉妬から始まった―――

この18日から、近隣のK市公民館で5回連続講座を始めている。
最初の2回が『松姫・菊姫』関連のお話で、後半の3回が『新選組』である。

改めて、新選組の歴史を紐解いてみた。
すると、以前からの疑問に再びぶち当たった。
文久二年に幕府が浪士組を募集したのだが、その任務に当たったのは、当時政事総裁職にあった越前福井藩主の松平慶永だという。
それは、出羽庄内の郷士清河八郎の建策によるものらしい。
このとき、清河は幕府のお尋ね者になっていて捕まれば打ち首ものだったはずだが、何故こういう者の提案を受け入れたのか、不思議である。

清河の親友で山岡鉄太郎という北辰一刀流の剣士がいた。この人は幕臣で、清河とは「虎尾(こび)の会」のメンバーで親友である。
この山岡が、幕閣との間に入って周旋したのかもしれない。
その証拠に、実際浪士組が京都に上洛する際、山岡が幕府から松岡萬とともに取締役として参加していた。

ある作家は、清河の建策の理念として「それ非常の変に処する者、必ず非常の士を用う、故によく非常の大功を成すなり」といい、その解釈は、

《浪士は浪士によって鎮圧するものだ。思ってもみない働きをするものだ》

ということらしい。

でも、この『非常の変』というのは『浪士』と決め付けるべきなのか疑問を持つ。
外国船が現れて開国を迫られ、通商条約まで無勅許で結ばれてしまった現状を憂え、攘夷の実行が必要であるという非常事態を言っているのではないかとも取れる。
でも、幕府に進言するという意味から、清河も自らの秘策は秘密にして、京都で暴れている天誅浪士の鎮圧といったかもしれないがーーー。
また、清河は、攘夷・教育・大赦の『急務三策』を迫って認めさせたとも伝わっている。
この大赦が通って、自分も芹沢も自由の身になったということか。

この浪士隊、文久三年2月8日に江戸の小石川伝通院を出発して23日に京都の三条大橋に着いている。
その後、事情があって幕府は直ちに、江戸へ帰還命令を出している。江戸を出発した234名の浪士の殆どが戻ったのだが、どうしても否だと京都にい続けたのが17名いた。

この17人と現地から参加した7名24人が、後の新選組の原型を作ることになる。
江戸へ帰ったものたちは、約束どおり直ちに幕臣として三十俵二人扶持で抱えられた。
京都に残ったものたちは、壬生の百姓家や寺に分宿していたが、勝手な行動をとったわけで浪人になるしか手立てはなかったし、壬生浪人、“壬生狼”と市民から言われた。

3月12日だと思うが、京都守護職を務めていた会津藩主松平容保に芹澤鴨や近藤勇たちは「自分たちを雇って欲しい」と、お願いに行き、タイミングよくそれがうまくいった。
何故か。

そもそも、幕府が23万石の大藩である会津松平を京都の警護に当たらせるなど、江戸時代を通じてありえないこをを命じた背景には、当時流行っていた『天誅』騒ぎにある。
文久二年7月始まった攘夷派のこの壮絶なるテロには幕府も手を焼き、中位の大名がその職責に当たっていた所司代は勿論、臨時に設けた大大名の京都守護職でも、犯人を挙げることが出来ずに万策尽きていたのである。
この期に及んでは、『毒には、毒を』で望むしかないと容保は考えていたに違いない。

天誅と称して暗殺を繰り返す犯人たちの多くは、薩摩や長州、土佐などを始め西国の雄藩を脱藩した浪士や、藩士そのもの達だった。
守護職は会津藩だから、藩としても相手が外様とはいえ、大きな藩とのトラブルに巻き込まれたくないという事情もあった。
でも、幕府の威信もあったから、いつまでも放置は出来ない。直ちに何らかの対策が必要だった。
そこで、『目には目をのようなテロ集団』が欲しかった。
そこへ、近藤たちが雇って欲しいと懇願しに行ったのだから、渡りに船である。
これは僕の推測だが、多分そう間違っていないと確信している。

その証拠に、この話が決まった文久三年3月12日以降、この月のうちだけでも何回も出動している。
近藤と土方が郷里に出している手紙で、それは明らかである。
「身を守る装備がないから、直ちに鎖帷子を送ってくれ」とか、「刀を送ってくれ」とかの内容が書かれている。
何度も出動して、刀がボロボロになってしまったというのである。

このあたりの手紙の内容に対しても、多少の疑問もある。
3月12日に雇われて、26日付の近藤の郷里への手紙である。
この短期間にそれほど乱闘騒ぎや決闘が多かったのか、裏付ける事件も伝わっていない。
でも、自分たちは京都で活躍しているから、ご安心をというひとつのポーズだったのかもしれない。

また、この頃はまだ金がないから自ら武器弾薬類を調達は出来なかったし、豪商をゆすって借金するほど信用もなかった。
佐藤彦五郎や小島鹿之助、八王子の谷合弥七などに、恵んでもらうしかなかった。

ところで、会津藩主の容保は松平姓で徳川家の親戚筋に当たる。
この先祖は代々松平を名乗っているのは当たり前だが、初代だけは保科正之で保科姓である。
何故か。

正之自身が二代将軍の秀忠の落し子であるのは事実だが、彼は五歳の当時高遠藩の保科家に預けられた。そして立派に成人して、元服した後、晴れて実父の秀忠に面会することが出来た。
彼は生涯を通して、幼少の頃育ててくれた保科家の恩を忘れず自分の代だけは保科を名乗るとして、家光の改名の勧めを断ったのである。

どうして将軍の子を預けなければならなかったのか、それは正室お江与の方の嫉妬にあった。彼女は異常なほどやきもち焼きで、秀忠に一切側室を許さなかった。
それでも二代将軍は内緒で大奥の女中たちに手をつけた。
ある時、お志津という女中が身ごもってしまった。
「どうしよう」
このままでは、お江与の方に知れてしまう。そこで側近の土井利勝をはじめ数人で密議を交わし、信頼の出来るところにこの女中を預け、無事に生ませて養育させようと図った。

妊婦を預け、無事に誕生させるように頼んだ先は、武田信玄の息女で穴山梅雪に嫁いでいた見性院であった。見性院はその妊婦をかつて織田信忠(信長の嫡男)の許婚で、今は出家して信松尼として八王子の寺に住む妹の“松姫”に預けることにした。
松姫には、武田家が織田軍に天正10年に滅ぼされた折、高遠城を抜け出て三人の幼い姫を連れて逃避行をし、ようやくたどり着いた八王子でこの子達を立派に育て上げた実績がある。

松は、その子を凛々しく利発に育てたが、5歳になった折に、もと自分が住んでいた高遠藩に養子として送ることにした。この頃は(1615年当時)保科家が高遠城の城主であったので保科正之という名がつき、のち3万石の大名になる。
これは伝説であるが、仔細はともかく大方信ぜられる。

正之は、18歳になった折、実父の秀忠に感激の面会をした後20万石で出羽の国の大名になった。
その後3代将軍になった家光にも気に入られ、会津藩23万石の藩主に任ぜられたのであった。

この正之は、開府当時の三大名君として挙げられ、水戸光圀、池田光政と並び称される。

僕が講演を行ったK市を流れ、現在でも東京や多摩地区に住む人々に癒しをもたらしている『玉川上水』は、保科正之の決断で43キロの道程を8月で開削したものであり、設計や工事は玉川兄弟が引き受けた。
これにより、世界最大100万都市の江戸の住民の飲み水を、神田上水と合わせて確保したのである。

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コメント
本当に、久しぶり
ここのところ、僕が病気のことを書いたので、しばらく音信普通だったかたがたからご心配して、メールや電話などをいただいている。

この肺の病気には、治療薬がこれと言ってない。
だから、
こういう漢方の薬があるとか、シンガポールによい医者がいるとか、手のひらのココを指圧すると良いとか、とてもありがたいご忠告をたくさんいただいている。

深く、感謝しています。

伊藤さん、そうですか。
見性院は、松姫の姉ですね。
その人が、秀忠の隠し子を育てたと言う。
実際に、誰が乳飲み子を預かったのか、僕は、それを松姫だったと仮定しました。

資料があるんですか。
僕は、探していたんです。
見てみたい。

貴重なアドヴァイス、有難うございます。
2009/12/01(火) 00:14 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
見性院
おひさしぶりです。歴代の会津藩主や現在の会津藩士の
子孫から成り立つ会にしても幼い頃に育てたのは
見性尼で様々な史料が残っております。その妹で松姫だった方は、姉である見性尼の手伝いをしたことなら考えられますね。
2009/11/29(日) 23:37 | URL | 伊藤哲也 #K5H6lFAY[ コメントの編集]
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2009/11/24(火) 17:04 | | #[ コメントの編集]
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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