村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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沖田総司終焉の場で肺の手術を受けたが

7日に入院して昨日(8日)に肺の手術を受けた。
本格的な手術は3月で、今回は内視鏡によるものである。
とはいえ、苦しくも辛い体験であった。

たった30分のことであったが、僕には2時間ぐらいに感じた。
最初、手術着に着替えてからキャップをかぶり、特殊な薬の入ったうがい薬を、約3分間ガラガラうがいさせられた。
それで口の中と喉の奥までしびれてくる。
次に、のどの奥をめがけて何回も霧吹きのようなもので噴射する。
咳き込むし、苦しいものだった。
これで、気管支と肺の奥底まで麻酔していると言うことだった。
これが麻酔だから、特に注射などはしない。

いよいよ手術台に乗せられて、仰向けになり、口に筒をくわえさせられる。
医者が周りに3人いた。それに看護婦が一人。

部分麻酔だから、意識はある。
今、何が行なわれているが、すべてがわかっている。
内視鏡のついた管が口の中から入ってきた。
入っていくのがわかるが、別に痛くもかゆくもない。
麻酔のお陰だ。

最初は、左の肺から始まった。
自分でも、管の先端が左の方向へいくのがわかる。
主任の医者が言う。

「痛かったり、異常のあるときは手を振ってください。大丈夫なときは、指で輪を作り、OKのサインをください」

僕は、一度も手を振らなかった。
痛くはなかった。
ただ、ずっと口を開けっ放しで、食塩水を入れながら手術を進めるので、肺に水がたまる。
脇にいる医者が、丁度歯医者で助手が唾液をすり取ってくれるように、機械で吸ってくれるのだが、それでも、とても苦しかった。

内視鏡で肺の中を確認しながら、医者が、あちこちを見ている。
時々、「ここをつまみます」みたいなことをいいながら他の医者に合図を送っている。
合計左右で10箇所ぐらい、肺の組織をとったみたいだ。
あとで、じっくり顕微鏡で、その切り取った肺の一部を覗くらしい。

それでも、まだよくはわからないそうだ。
次の手術では、身体の脇の下に穴を開けて肺から3センチ四方のものを3箇所切り取ってきて、さらに精密に調べるそうだ。
そうして、初めて、僕の間質性肺炎の状態がわかるそうなのである。

たった検査だけのことで、これだけ大げさなことが行なわれる。
次は、3月初旬に、今度は2週間も入院する。

あの慶応病院、兎に角混雑するところだが、何せ建物が古い。

Image297.jpg
病院の廊下

僕の部屋は個室だったが、恐らく50年以上経過しているのではと、思える。
壁なぞは、様々なコードや管がむき出しになっている。
例えば、酸素ボンベ用の空気の管が壁に貼りついている。どこか薄暗い。薄気味悪い。

良いことと言えば、部屋が広いことだ。
僕は、ここ数年、毎日朝はストレッチなぞを行なっているので、広いのは助かる。
あと、床が板張りで、よく清掃されているのだろう、ピカピカ光っている。鉄筋だし、廊下なぞはリノリウムの合板材のようなものだが、なぜか、病室の床だけは板張りであった。

Image298.jpg
部屋の中

でも、静かで、自分ひとりの時間が長いので、思い切り本が読めた。
そう、新選組と坂本龍馬の研究をさせてもらった。
今度は、ココに2週間も生活することになる。
まあ、いいか。

今、“龍馬ばやり”である。
異常なくらいだ。こんなに盛り上がっていいのだろうか。
NHKの戦略にのせられている。民放も。

きっと、龍馬サイドに立った「良いお話」が大げさに、時には間違って伝えられることになるだろう。
そのうちのいくつかで、僕が疑問に思ってきていることがある。
例えば、薩長同盟だ。

これは、慶応2年1月21日に、その気のなかった長州と薩摩が、京都で龍馬の尽力で、仲裁に入って結ばれたことになっている。
龍馬が時代を進めたことになっているが、果たして本当か。
その事実は本当だろうが、龍馬がそうしなくたって同盟は近いうちになったと、僕は見ている。

何故なら、薩摩(西郷)も長州(桂)も、十分にその必要性(同盟の)を感じていて、その取っ掛かりを探していたのだから。
でも、確かに、龍馬の存在は貴重で、上手い具合に動いてくれたということだろう。
もっと言えば、竜馬は西郷にうまく使われた、と見ている。
西郷は、人を見抜く能力にかけては天稟の才能があったと思う。人を使うのも上手い人であり、育てるのも上手だ。

西郷は、あの時、わざとのらりくらりと煮え切らない態度を装っていた。
あの人には、維新を成し遂げるまで、何回もそうしたことがあった。
すべて、計算ずくで行なっていたと思う。
一面ずるいが、大きなことをなすには、踏むべき順序のようなものがあって、それらを踏まえないとその後の事態が上手くいかないことが間々あると、西郷はわかっていたからである。
わざと、遠回りをするのである。

それと、これは、みなさんあまり指摘しないが大事なことなので言うが、西郷と大久保の立場、地位である。

薩摩藩の中でも、下級に位置している二人が、あの大藩を動かすほどのこと(権限)が許されていたのであるか、と言うことだ。
小松帯刀と言う人が同時期活躍したが、彼は、薩摩藩の家老である。
藩主から、十分、ある程度までは、独断で決裁する資格が与えられていた。

西郷はどうであろうか。
当時、薩摩では、実権を握っていたのは藩主忠義ではなくて、父の久光である。
この人は、兎に角西郷のことが嫌いで、明治四年のあの廃藩置県のときは、あまりの悔しさに、一晩中金港湾に花火を上げさせたくらいである。

西郷は、都合3回も島流しにされているが、すべて久光の指令である。
本当は、(西郷を)殺したいくらいだったろうが、周りがそうさせなかっただけだ。
その西郷が、久光の意向を無視して勝手な采配が許されていたであろうか。
武士の世界である。
藩主と家来の間のことである。西郷という人間は、武士道精神を優先して大事にした男である。
前藩主斉彬を慕うあまり、追い腹をきるところまで決断した。ことさら藩主の存在を大きく捕らえていた人である。出すぎたことは控えていたのである。

それでも、久光を田舎もんとして、一面馬鹿にしていたところもあったので、その意向を無視して前に進んだこともあった。
だが、長州と同盟を結ぶと言うような大事を、藩主の許可なしにできるはずがない。
龍馬にせっつかれたからと言って、「はい、そういたします」などと、簡単にいかないのである。
これは、桂だって同じで、当時の長州の事情を考えれば、薩摩などと同盟を結ぶなんぞ、とんでもない反逆なのである。
簡単に、握手するなどとはいかないのだ。

でも、多くの書物は、龍馬の進言で、仲裁で、煮え切らない二人をその気にさせたことになっている。
このあたり、もう少し、真実を知りたいなあ。

あと、病室で、一人思案したこと。
それは、大政奉還である。
これも、龍馬が、土佐の参政後藤象二郎に進言したものが、山内容堂に伝えられて、それが徳川慶喜を動かしたことになっているみたいだが、果たして本当か。
そういう事実は、あっただろうが、それで、慶喜が決断したとは思われない。
僕は、これは、慶喜が大分前からそうしようと考えていたことであって、たまたまタイミングが一致しただけだと思っている。

それが証拠に、慶喜は、本心で政を放り出してはいない。
朝廷も、政治を放り出されても困るから、その後、近いうちに必ず、徳川へ政治を行なうように朝廷から話があると、慶喜は確信しているのである。
そのときこそ、朝廷から依頼で、連立の中心となって自分が理想としているフランス式の政治を行なうのだと、構想していたに違いない。

薩長なぞに、政治が出来るわけがないと、高をくくっていた。
これが、大きな計算違いで、師走に入って王政復古を宣言され、おまけに、慶喜は官位を剥奪、徳川の領地没収まで出てきたのであった。
そこで、鳥羽伏見の戦に発展する。
この話は、ゆくゆく、もっとゆっくりする。

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コメント
今を幕末に例える癖
カラヤンさん、有難う。

鋭いご推察、感服いたしました。

僕は、小松帯刀についてまだ勉強不足でした。
そうかも、いや、そうでしょうね。
彼は、久光と言う国父(藩主?)の性格をよくわかっていて、
自分が間に入って調整役をし、西郷と大久保を働かせた、
と言うことですかね。

まだ、若いのに。
早死にしてしまって、残念。
彼が生きていたら(タラ・レバだが)、明治政府の主要なポストについて
いたことはまず間違いないし、明治の歴史も随分と変わっていたかも。

坂本龍馬も生きていたら、岩崎の三菱があんなに立派には
ならなかったでしょうね。
もっと、違った形の経済・財政状態が出来ていたでしょうね。
渋沢栄一と言うもと尊皇攘夷の志士も、日本経済の立役者として、坂本と
どう連携していったのか。

一番のことは、明治の後半に入って長州閥の陸軍がイニシアチブをとり始め
て、山縣あたりを中心に日本という国が軍国主義に走り始めました。
このあたりも、もっと違っていたかもしれませんし、その前の日清・日露の戦争
もなかったかもしれない。

坂本がいなくたって、時代は変わっていた。
そうですよね。
昨今、金権で世間を騒がしているOさん、あの人がいなくたって、民主党は
政権をとっていた。

でも、民主党のドンが、土建業界から献金がなされていたと言うのは、いかにも
まずい。
国民は、裏金とは無縁の政党に投票したはずなのに、これでは、どんな政党でも
日本という国は、所詮「金」か、ということになる。

マスコミは、あの人がいたからみたいな報道をしているけど、ああゆう体質の
政治家がいなくなって初めて、本来の民主党の政治になるのかもしれません。

おっと、歴史に「もし」はいけませんね。
僕の病気、気にかけてくれて有難うございます。
一時は落ち込んだけど、ようやく取り直してきました。
息の続く限り、前向きに生きていきます。

村瀬彰吾


2010/01/15(金) 00:39 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
検査ご苦労さまでした。
しかしまた2ヶ月後に長期入院での検査とは
大変ですね!
それで漸く正確な病状がつかめ本格的な治療の開始と
なるんでしょうね。
でも考えてみると病状が急激に悪化する病気ということでは
ないようなのでここはひとつじっくり構えて下さい。

さて村瀬さんの言われるように
私も龍馬が幕末の政権交代の立役者のように
言われることには少々疑問を感じていました。
若さもあり、行動力もあり、なにより新しい考え方を
持っていたのは確かでしょうけど。
だからと言って龍馬が居なくても政権交代は行われたでしょう。
2008年の大河ドラマ「篤姫」で知名度アップした小松帯刀ですが、私は薩摩藩では彼の働きが大きかったと思います。
龍馬が考えた新政府の人事でも西郷、大久保を抑えて
彼をトップに据えています。
彼は調整が非常に上手い人だったようです。
村瀬さんは西郷が龍馬を上手につかったと書かれていますが、
私は斉彬亡きあと西郷、大久保を上手くつかったのは
小松ではないかと思います。
田舎者の久光(失礼)を上手く誘導し、下級役人の西郷、大久保
をつかい、長州と交渉を進めたのは多分彼だと思います。
家老が前面に出る訳にはいかないですからね。
長州側も多分そうでしょう。
西郷・桂の会談も京の小松屋敷で行われていることからみても
まず間違いないと思います。
薩摩藩の屋敷ではまずかった筈です。
小松が前面に出ることは無かったので、後年
西郷、大久保、龍馬が目立つことになったのでしょう。
それに小松は早くして亡くなってしまいましたからね。

カラヤンでした。
2010/01/13(水) 17:49 | URL | Karajan #JIwOUj62[ コメントの編集]
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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