村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

入院&池波正太郎氏

明日から、突然、入院です。
それにしても、さすが、池波正太郎氏。


さっき、病院から電話が来て、「明日(4日)から、入院です」って。
急すぎる。
でも、仕様がない。


検査のためとはいえ、全身麻酔で、肺の組織を3ヶ所切り取ってくるというもの。

いやだ。

初めてのことだが、意識がちゃんと回復するのかなあ。
娘には、若し、回復しないといけないから、わずかな貯金のことなど、言っておいた。

このブログ、これだけじゃつまらないから、何か書こう。
前回、歳三の浅草での逸話を書いた。
ああゆうのを書いたのは、思い返せばあの当時(5~6年前)、あの傾向の書物をよく読んでいたからだと思う。
新選組関係の本を、とにかくよく読んだ。

その中に、火付盗賊改の長谷川平蔵を書いた池波正太郎のものがあった。
あの人、江戸文化に造詣が深い作家で、新選組なぞ書いていないかと思いきや、結構好きらしい。
彼の思い出話に『土方歳三』というタイトルがあって、その冒頭部分、池波氏の原文そのままを、載せさせていただく。

 今から6年ほど前の、夏のある日のことであったが……。
 母と家内と三人で、テレビを見ていると、母が何気もなく、私に、

 「土方歳三っているだろう、新選組のさ」
 「ああ、いるよ」
 「たしかねえ、その土方歳三のだと思ったけどねえ……」
 「なにが?」

 すると母が、
 「あの土方って人の彼女は、京都の、経師屋の未亡人だったんだってねえ」
 と、こういうのだ。

 私は顔色を変えた。

 「どうして、そんなこと知ってる?」
 「昔、お父っつぁんに聞いたことがある」

 母の父は、即ち私の祖父である。


こういった池波氏の随筆である。

その後、彼は、お母様のその一言で、あるアイデアを思いつき、土方の短編を書いたそうだ。

題名は、『色』。

もう少し、池波氏と母上との話の続きを書くと、こうだ。

 「もっと、詳しく話せよ」
 「それだけしか、覚えていない」
 「もっと、思い出せ」
 「無理だ、40年も前のこったもの」
 だが、それだけでも私にとっては十分であった。
 このときまでは、私は[新選組]を書こうという意欲が余りなかったといってよい。
 新選組については、故子母沢寛氏の不滅の史伝があり、われわれが、足を踏み入れるべき余地はない、と、私は考えてもいた。
 
 しかし、このとき、母が漏らしてくれた素材―――すなわち、新選組の副長を務め、鬼と呼ばれた土方歳三の馬ていをつとめていた男が、明治になって飾職人となり、その息子が友人(私の祖父)へ[土方歳三の色女は、京都の大きな経師屋の後家さんだったそうだよ]と、こう話したという、それだけのことが、私の執筆意欲をそそった。

 そこで、あらためて新選組関係の資料を集め直し、翌年になってから、土方歳三を主人公にした[色]という短編を『オール読物』へ発表したのである。


あの当時は、この池波氏の随筆を見ても大して感動もなかったのだが、今になってみると、貴重な池波さんの体験談だった。
こういう池波さんの体験談から、自然、僕も『駒形どぜうの女将さん』からのヒントで、「すってん業平~」のような小噺を思いついたのかもしれない。
勿論、池波さんと比較するなぞ、到底出来ないほど稚拙なのだが。

お母様からの一言も重要なのだが、池波さんが書いている「故子母沢寛氏の不滅の史伝があり、われわれが、足を踏み入れるべき余地はない」という、一文に僕は動揺した。

ああ、そうか。
昭和の初期に出された子母沢寛氏の3部作は不滅のものであり、作家仲間の間では、踏み込めない領域だったのか、ということである。
だから、昭和38年ごろに司馬遼太郎が書いた「燃えよ剣」とか「新選組血風録」も、子母沢寛氏の説を大概そのまま受け継いでいる。
(勿論、その後の、三谷幸喜さんも)

当時、子母沢寛氏は、調査のために何度も京都に赴いて調査を続けられ、かなり苦労されて、新選組異聞や始末記や、物語をお書きになった。
生き残りの人や、永倉新八関係の人たちとも接触してお書きになった。
頭が下がる。
だから、新選組の『バイブル』なのである。

でも、今になってみれば、試衛館の所在地が小石川になっているし、明里と山南の関係や存在など、記憶違いや創作なぞも出てきている。
司馬さんに至っては、「燃えよ剣」の中で、斉藤一に関する記述に大きな間違いもある。
函館まで一緒に行っているし、一諾斎と同一人物になっている。
大作家になると、間違いが発見されても、誰も言おうとしない。その存在がでかすぎて、いえないのかなあ。

でも、それらがみな、史実になっていってしまう。
これで、いいのだろうか。
もう一度、病室でじっくり考えてみる。

入院前に、とんだイチャモンをつけてしまった。
しばらくは、自宅で、パソコンを開けないので、皆様、すいません。
無事に、退院してきてから、またコメントします。




管理人より

村瀬は本日4日より2週間入院予定です。
コメントのお返事は2週間後となります。
ご了承くださいm(__)m


携帯から返事が返せるそうです。
スポンサーサイト
コメント
立売営業権
カラヤンさんの コメント 病室で読ませていただきました

そうですか
品川の駅構内ですか 小松帯刀子孫ですか

是非 食べに行きます
だって 僕はむるいの駅そば好きだからです

僕が最初に就職して営業やらされた頃 朝一でそばを掻き込むで 現場に行った記憶があります
もう 40年も前のことになります

その当時 もっとも旨かったのは 総武線亀戸駅の「京葉そば」で ねぎたくさん入った 天玉そば でした
懐かしいです
今は 何処が美味いんだろうか

退院したら
早速 品川駅に行きます
2010/03/11(木) 19:31 | URL | 村瀬彰吾 #-[ コメントの編集]
う~ん
検査入院とは言え
2週間はキツイですね。
検査オペは全身麻酔とは言え
心配するようなことは無いと思いますが
病院での2週間を如何に過ごすか、
これが問題ですね。
村瀬さんのことですからそれなりの目論見が
あることと推察致します。
2週間後の記事が楽しみです。

ところで品川駅中で立ち食い蕎麦や居酒屋をやっている
常盤軒と言う会社があります。
歴史は古く、創業は大正12年。
大正11年(1922年)に鉄道大臣から品川駅での立売営業権を
伯爵小松重春に与えられたのが始まりだそうです。
まさにこの会社、今はやりの駅中第1号です。
もしや伯爵小松重春さんとは・・・調べてみると、
そうですあの小松帯刀のお孫さんです。
何でも慶應3年(1867年)に小松帯刀が鉄道敷設建白書を
呈上した功績を考慮して第1号免許を与えたとのこと。
幕末の混乱の中で、新しい政府があたらしい国づくりとして
何を早急にやるべきかかなり早い時期から考えていたんですね。
鉄道が開通したのは明治5年、富岡製糸場も明治5年。
現在でもこれに匹敵するような国家プロジェクトを5年で
立ち上げることは難しいと思います。
彼は早い時期から、遅かれ早かれ幕府が瓦解すろことは見えて
いたのでしょう。
倒幕の嵐の中で次ぎにやるべきことを見据えていたのでしょう。
残念ながら彼は明治3年に鉄道開通を見ことなく亡くなって
しまいました。
歴史にタラレバが無いのは村瀬さんの言う通りですが、
彼が、西郷が、大久保が、そして龍馬があと20年生きていれば
その後の日本はまた違った道を歩んでいたでしょう。
私は別に薩摩に縁も縁もありませんが、長州が・・・・
そのころから日本は危うい道を歩始めたように思われて
なりません。
それにしても55年も経って帯刀の功績を忘れてなかったとは
これまた凄いことでもありますね。

Karajanでした。

2010/03/04(木) 16:37 | URL | Karajan #-[ コメントの編集]
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






リンク
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カテゴリー
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新の記事
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近のコメント
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。