村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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土方歳三、鳥羽伏見戦争体験記

鳥羽伏見の戦争について、途中まで書いて横道にそれてしまった。
御香宮に布陣した薩摩軍からの激しい攻撃によって、伏見奉行所に屯集していた新選組・会津軍は余儀なく後退させられた。

御香宮は今でも立派に残っているのだが、伏見奉行所は、薩軍からの攻撃で焼け落ちてしまい、現在は跡形もない。

この奉行所があったとおもわれる場所に【伏見奉行所跡】という碑が建てられているのだが、桃稜団地という公団住宅の一角であった。
ここがよく知られている跡地なのだが、一緒に歩いた女性が「この先の中学校の中にも碑があると聞いたことがある」というので、俄然冒険心が出て、探検してみた。

土曜日なので学校は休みだったが、用務員さんに挨拶して、中に入らせてもらった。
正門を入ってすぐのところに草むらがあった、奥のほうに古めかしい碑が見えたので掻き分けて入ってみると、【維新戦跡】という石碑があった。
さらに奥へ奥へと学校の中に入って行くと、校舎の向こうはグランドで、中学生が野球の試合をしていた。
遺跡なぞ、もう何もないようだったが、三塁側ベンチの中の後ろに碑が見えた。
図々しくベンチの中に入り込んで眺めたら、なんと、ここにも【伏見奉行所跡】の碑があった。

さて、どう考えたらよいのやら。
二つ碑が出てきてしまった。
両方とも正しいのかもしれない。だとするとこの奉行所はドでかい敷地を持っていた事になる。
先ほどの団地からこのグランドまで、500メートル程度はあるからだ。

いづれにしても、散々な目にあった幕軍は中書島の方向へ後退したのであり、新選組は淀近辺まで撤退した。
土方は淀城を根城(ねじろ)にして闘えば、まだ十分だと思っていた

鳥羽の城南宮付近で負け、伏見の奉行所が焼かれたといっても、徳川方はまだ先鋒隊だけの戦力で戦っていたのだから、負けたといっても大阪城に屯集している新手の兵をもって闘えば、十分に勝算のある戦況だった。
この時の薩長軍はせいぜい三千五百程度の兵力で、大阪城には一万の兵士が待っていた。
それに、大阪湾には榎本武揚率いる優秀な徳川海軍艦隊が遊弋して待ち構えていたのだから、歳三には、まさか負けるなどということは考えられなかったのである。

だが、負けてしまった。それも大負けだ。
何故だ。
一に兵器、二に錦旗、三に裏切り、寝返りである。
銃器の差のことは先きに書いたが、四日になって新政府軍は仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王を征東大将軍に任命し、天皇から錦旗と節刀を賜り、幕府軍が賊軍であることを明示した。
これが恐ろしいほどの威力を発揮し、外様はもちろん徳川譜代の大名までが敵に寝返ってしまったのであった。

1月4日になって、淀城を根城(ねじろ)にするべく徳川勢は開門を要求した。
だが、なんと拒否されてしまった。
淀藩は譜代で、現に当主の稲葉正邦が老中として江戸で勤務しているにも拘らず、寝返りを打った。
伊勢の津藩の藤堂家は外様ではあったが藩祖高虎以来、徳川家に忠誠を誓うこと深く、もし西国にことあって徳川家が出陣する際は、譜代第一の彦根藩と並んで左右の先方をつとめる事になっている家である。
この時は京都盆地の咽喉部である山崎を守備していたのだあるが、これが薩長側になびいて、淀川越しに八幡や橋本にいる徳川方に大砲を撃ったのであった。
この両藩ですら、このとおりであるから、それまで形勢を傍観していた諸藩は一斉に雪崩をうつがごとく薩長方に味方する事になる。

土方歳三は、まさか譜代の淀藩が寝返りを打つとは思わなかった。
やむを得ず淀城の外に陣を敷かざるをえなかったのであるが、鳥羽街道(桂川沿いの道)では愛宕茶屋付近、伏見街道(宇治川沿いの道)では淀堤千両松付近だった。

私たちは宇治川の派流となっている濠川沿いを歩いてから中書島に行き、そこから再び電車に乗って淀駅までいった。
直ちに、淀駅から歩いて10分ほどの日蓮宗妙教寺を尋ねた。
ここの本堂に一つの位牌がある。
【戊辰役東軍戦死者霊位】とあり、
  愛宕茶屋士17名、卒18名
  八番楳木士38名、卒 3名
と、死者の数が記されてあった。
徳川軍だけで、合わせて76名がこの時戦死したのである。

八番楳木(うめき)とは、淀堤千両松付近をいうのだが、新選組はここに陣を敷き、会津兵らと共に戦ったのだが、井上源三郎ら14名が戦死してしまった。
今の京都競馬場の駐車場の角に、慰霊碑がある。
ここ妙教寺の本堂には砲弾が打ち込まれた跡が残っていて、内柱が貫通していた。
その弾は向かって右横の側面を打ち破って中へ入り込んだものであるが、当時の住職16世日祥上人はその時のまま、一切修理を加えずに後世に伝えるようにと残させた。だから、本堂の中から、その穴を通して外の青空が眺められる。
その傷跡が、生々しい。

現、日胤上人は『妙教寺物語』の中で、「妙教寺の柱の弾痕が、過去の戦争の物語となったように、地球上から、戦争というものが過去の物語となるように」と書いている。

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円山公園の有名なしだれざくら

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通説の伏見奉行所跡

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中学校グランドベンチの中の伏見奉行所跡

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伏見濠川沿いの酒蔵群

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寺田屋正面

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妙教寺銃弾通過痕

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淀千両松の慰霊碑
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『鳥羽街道』について

鳥羽街道鳥羽街道(とばかいどう)は、京都の羅城門跡(京都市南区 (京都市)|南区)から下鳥羽を通り淀(京都市伏見区)へと至る街道である。淀からは大阪|大坂へと通じる道が続いており、京街道、大坂街道とも呼ばれた。.wikilis{font-size:10px;color:#666666;}Quotat
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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