村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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試衛館ツアー―2

試衛館ツアーに参加した。―――2
龍馬~北辰一刀流は、清河八郎~山岡鉄舟つながりに関連していることがわかり、大収穫であった。


歩いた行程を、再度示すと、

 JR中央線市ヶ谷駅~~市谷八幡社~~千葉束道場跡~~植木屋平五郎墓所~~土方歳三親戚、伊勢屋跡~~ 沖田総司逝去の地~~(サンバカーニヴァル見学)~~試衛館跡~~廿騎組屋敷近藤邸跡~~あさくらゆう講演


このうち、前回、の 沖田総司逝去の地まで紹介した。
ここからはバスで移動して、市谷柳町に向かった。
この日は丁度、「薬王寺・柳町七夕まつり」の日で、行ってみるとサンバのパレードの真最中であった。

僕は、初めてサンバのパレードを見たが、あの裸同然の姿で強烈なリズムに乗って踊りまくる光景は、見ごたえ充分である。
サンバのお祭りは、浅草が有名だが、ここでもやっていたのか。でも、よさこいだって、いまや、日本中どこでもやっているし、まあいいか。

このパレードに、数年前までは確か、新選組のコスチュームで試衛館の人たちが参加していたはずである。
何で、今は参加していないのだろう。
理由をなんとなく考えてみると。
コスチュームの「どくろ」が問題だったりするのだろうか。

DSCN2203a.jpg

もともと、京に限らず江戸でだって、新選組の評判はいまひとつだから、柳町の住民たちには、どう写るんだろう。

そう言えばちょっと見には、あの真っ黒な法被にどくろは、どこかの宗教団体か右翼集団に見えないこともない。
だから、僕らがツアーをしていて、新宿通りから国道20号をわたっているとき、おまわりさんが数人走ってきて僕らを取り囲んだ。
今、参議院選挙期間中で、辺りは候補者カーが何度も行きかっている最中だから、警察も神経質になっているところだ。
そこへ来て、この出で立ちでパレードしていれば、つかまるのもわかる。
実際、やっている人たちは、皆さん紳士淑女で僕も仲がいいのだが、―――難しいね。

サンバのパレードの喧騒から少し離れた裏通りに、『試衛館跡』があった。

DSCN2204a.jpg

柳町というところは、交差点がくぼ地で、もともとオキシダント濃度が高くて公害で有名になったところだから、この辺りは坂が多い。
試衛館のあったところも坂の途中で、ここにいると、からだが傾いているような気がするほどだ。

天然理心流3代目宗家の近藤周助は、何故、この地を選んで道場としたのだろうか。
わからない。
そもそも、天然理心流は多摩地区で発展していった流派であるのに、周助は江戸のはずれに天保元年、道場を開いた。
いろいろ、言われている。
2代目の近藤三助が46歳で文政二年突然死したために、3代目が決まっていなかった。
増田蔵六や小幡万兵衛、松崎正作ら有力後継者候補はいたのだが、十年経過してから、周助が江戸で名乗りを上げた。

これに対して、他の門人たちは多摩地区で、余り快くは思っていなかったと伝えられる。
その経緯は、わかっていない。
天然理心流は、江戸後期に創始された武術であって、多摩地区近辺との密着性が強い。
だから、門人たちは、東京都、神奈川県、山梨県、埼玉県に集中している。
江戸の門人たちは、旗本、御家人といった徳川直属の武士たちが殆んどで、地方出身者が少なかった。そのため、この流派は全国には広がらなかった。

次に、このツアーの最後として、『廿騎組屋敷近藤邸跡』へ赴いた。
試衛館からは、歩いて数分である。
ここは、慶応3年10月に、道場をたたんで住まいを移したところだと伝わる。
3代目周助(周斎)は、ここでその翌月亡くなった。
近藤勇の処刑された慶応4年4月25日頃は、妻子のツネさんと娘のタマちゃんは中野の成願寺に隠棲していて、その後は勇の生家の調布市上石原へ移住した。
どういう訳か、ここは手放している。
これも余談だが、この廿騎組屋敷の近藤邸跡は、今、落語関係のある有名タレントの住まいになっている。

DSCN2209a.jpg

ここまでで、本日のツアーは一通り終了である。
蒸し風呂のような梅雨の暑さの中、自分としては良く歩いた。
万歩計を持っている人が、「15000歩は、超えました」などといっていた。
その後は、再び歩いて『牛込箪笥町地域センター』に移って、あさくらゆう氏の講演を聞いた。

ここで、眼からうろこの新しい発見があった。

ゆうちゃんは、もう何年も前から親しくしている研究家だが、彼の特徴は、歴史を真正面から捉えて間違ったものを排除してゆく正攻法にあると思っている。
この点、僕ともよく似ているところだが、それだけに、波風立てたくない人等にとっては厄介な存在なのかもしれない。

この度の発見もそのうちの一つで、数日前の毎日新聞の一面にそれは掲載されていた。

さなの新聞記事

龍馬の婚約者、千葉さなは、生涯独身を通したということになっているが、龍馬の暗殺後、元鳥取藩士と結婚していたとする明治36年10月5日付の記事を見つけた、というのである。
故司馬遼太郎のコラムなどから、独身説が広く知られてきているが、実は一度はそのようなことがあったということだ。
その後、わけあってすぐ離縁しているが。

実は、僕が、眼からうろこというのはこのことではなくて、清河八郎が記した「玄武館出席大概」(清河八郎記念館蔵)である。

清河が、当時最高学府といわれていた江戸の安積艮斎塾で学ぶ傍ら、北辰一刀流の修行をしていたのはよく知られているところだが、龍馬との接触の可能性が出てきた。
この書物の中に坂本龍馬の名があり、同時にあの有名な幕臣、清河と親交のあった山岡鉄舟(当時は小野鉄太郎)も載っていたのだ。
嘉永6年当時は山岡は小野姓であり、龍馬が初めて江戸に出たのもこの年だし、清河の記述にある坂本は、最初から千葉周作の玄武館で修行をしたことになる。

すると、これまで言われてきた周作の弟定吉の桶町道場は違うのでは、との疑問が出てくる。
ついでに、ゆうちゃんが言うには、この時点で(嘉永6年)定吉はまだ桶町に道場は構えてはいなかった、というのだ。
だから、龍馬の玄武館門人説のほうがしっくりいくという。
なるほど。

でも、龍馬は乙女姉さんに定吉の娘“さな”のことを手紙で紹介しているのも事実だから、桶長道場でのことは、もう少し後の安政年間以降のことかもしれない。

楽しい発見をご披露してくれて、あさくらゆう氏には改めて、感謝する。

(終わり)


ご協力【日野宿本陣文書検討會


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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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