村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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歳三の恋人―――4

―――幕末と新選組と市民講座―――

多摩交流センターの市民塾で「新選組講座」を担当しているが、約半年に及ぶ長~イ講座の第4回目が先日行われ、『新選組大江戸ツアー』と称して、試衛館から浅草まで地下鉄と徒歩で行ってきた。

すると、都営地下鉄が、開業50周年記念事業として「龍馬と幕末」というタイトルでスタンプラリーを開催していた。
今年は、日本中どこへ行っても龍馬ブームである。
そこで、江戸時代の古地図と付近の旧跡を紹介しているパンフレットを配っていたので、いただいてきた。

Image4221.jpg

Image419.jpg

このパンフ、龍馬なのに何故か【1】に「試衛館」として、新選組から始まっている。

また、この付近の地図を見ると、どうしても僕は「内藤駿河」という広大な屋敷に目が行ってしまう。
ここは徳川時代は高遠藩内藤家の別宅だったが、今は新宿御苑といわれている公園で、都会のど真ん中だが美しいし、市民が憩える、数少ない安らぎの場所となっているところだ。

僕も、大学受験に失敗して浪人生活をしている頃、ここで英気を養った経験がある。
朝一番で新宿図書館に行ってそこで学習したものだが、その図書館のすぐ横が新宿御苑の正門だったのだ。

この屋敷の右下に沖田総司が永眠した植木屋平五郎の離れがあったし、さらにそのすぐ右脇が、今年二度も入院した「慶応病院」がある。
ちょうど、この地図で、JR中央線の「信濃町駅」の左上『永井シナノ』と書いてあるところか。

このパンフの【2】が、「華族女学校」になっている。
ここは、説明にもあるように、龍馬の婚約者千葉さなが、明治になって一時舎監として勤めていたところである。
龍馬とさなは、正式に婚約を交わしたのであろうか。
結納の品として、千葉家からは父定吉が龍馬に小刀を授けたといわれ、何も持たない龍馬は、桔梗紋の入った袖をちぎってさなに授けたといわれている。

さなは、終生この袖を龍馬の形見として大事に抱き続けた。
華族女学校でも、学生たちに見せては、自分が龍馬の婚約者だったと証明していたと言われている。
だが、

哀れである。
明治に入って、どんな功績を残したものでも、死者は忘れられていた。女学生たちの殆どは、龍馬を知らない。
吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作など、そして清河八郎や有村治左衛門や兄の雄助等、維新を迎える前に命を終えた志士たち、情報通信網が未発達の時代では、知られてなくても仕様がない。

それに、明治以降、政府にとって都合の悪い功労者は、教科書にも載せない(今でも、同じ)。特に、徳川の功績者なぞは、逆賊として扱われていたから、忘れられて当然なのである。
功労者龍馬でさえも、過去の人間として忘れられた。
逆に、勝者は栄えた。
でも、今は、この話ではない。

実は、この7月、友人のあさくらゆう氏達とこの付近を探索したことがあった。
ブログでも、紹介した。――7月8日付の『試衛館ツア―――1』をご覧いただきたい。

そこで、≪千葉束道場跡≫に行ったのだが、ここは、さなの兄重太郎が明治に入って、養子の束に道場をもたせたところとされている。
そこは、市ヶ谷駅から暁橋に至る途中の左側で、今は防衛省になっている広大な尾張殿の屋敷の殆んど目の前である。

このときの、僕の期待は、沖田総司が生前、その道場で修業をしていて欲しかったということだ。
何故?

それは、今でも沖田家に、総司北辰一刀流免許皆伝が伝えられているからである。
普通は、絶対にありえないこととされているが、沖田家の菩提寺専称寺の墓石にもそのように彫られているから、始末悪い。

「天然理心流の総司が北辰一刀流免許皆伝」
常識では考えられないことが、沖田家に伝えられえている。
これを、説明できる人は、今のところ誰もいないであろう。

子孫の周治さんとは、僕は親しくしているが、彼はその皆伝書を見たことがあるという。
是非見たいものだが、長男の整司氏が昨年亡くなられれて、代が変わって見ることが難しくなっている。

千葉束道場には、もしかして、北辰一刀流免許皆伝のさなも剣術を教授していたかもしれない。何しろ、自分が勤めていた女学校からすぐ近くなのだから。

総司は、そこの道場で稽古をしていたことはありえない。だって、そこは、明治になってから作られたところだからだ。

今回のツアーは、天然理心流試衛館から浪士組が出発した伝通院まで歩くのが第一の目的である。
試衛館の面々が、どういうルートで歩いていったのか。
きっと、わいわいがやがやと、腰の物だけを頼りに着の身着のままで参加して行ったに違いない。

次に、浅草の浅草寺近辺を散策して解散なのだが、浅草といえば「今戸神社」である。
ここは、総司が逝去した地としてすでに記念碑が立てられているところだが、今は千駄ヶ谷説が有力となっている。

でも、不思議なことに、千駄ヶ谷の方には碑も立っていない。
こちらを最期の地と信じる人が多いのに。
この理由は、新選組の悲しい運命と関係がある。

京都の『新選組同好会』の代表をしていらっしゃる横田氏は、二条城の脇で刀剣屋さんを営んでおられるが、悲しい実態を僕に力説していた。

今から約6年前、NHKの大河ドラマで『新選組』を放映すると発表があった頃、すぐさま僕は京都へ行った。
そこでいろんな人にお会いしたが、横田氏は、
「京都市も府も、新選組にはこれまで冷たくて、関係する旧跡に記念碑一つ建ててくれないんですよ」
確かに、新選組といえば壬生寺近辺が一番有名な観光スポットだが、ここには「碑」が全くなかった。
行政に運動してもやってくれないので、横田氏らが身銭を切って立てた、と言っておられた。

あさくらゆう氏はこう言う。

「今、新宿区にお願いしているんですよ。総司の最期の地に、記念碑を立ててください、と。でも、なかなか実現しなくてーーー」
「試衛館の跡地だって、今から数年前デスモン」

だから、確かに、総司が死んだとされる植木屋の離れの地点に行っても、何もそれらしいものはないのである。
これが、新選組の実態である。

浅草には、歳三と山内容堂と高尾太夫との三角関係の面白い話がある。


つづく

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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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