村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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(改)『すってん業平』になった土方歳三―――1

安政6年10月、25歳の歳三、江戸は牛込柳町の試衛館道場で師範の近藤勇のもと、連日剣術の稽古に励む土方歳三。


牛込柳町『天然理心流試衛館』
江戸は初冬に入っている。
欅や銀杏(いちょう)の葉も赤や黄色に色づいてきて、この頃はめっきり朝晩が冷える。それに、四季のうち、江戸では特に秋が短いように歳三は感じていた。
秋の日は釣瓶(つるべ)落としというが、さっきまで陽が出ていたかと思えば、もう暗くなっていて、暮れるのは早いし朝も明けるのが遅くなってきている。
ついこの間までは、寅の刻(午前4時ごろ)から半時も過ぎれば世間も見えてきたのだが、試衛館のあるここ市ヶ谷柳町も、明け六つ(午前6時ごろ)を待たないと明るくならない。
朝の静寂の中に、野菜やしじみの引売り、棒手振の声のみが響いている。得意の節回しで、江戸の街は早朝から独特の雰囲気をかもし出している。
「にんじん、だいこん、ほうれんそうーーー取れたて~え」
「なっとう、とうふーーー」

それにしても、江戸は連日大獄の嵐で不穏な毎日が続いている。先日7日も伝馬町につながれていた越前藩の俊雄、橋本佐内が斬首された。弱冠25歳であった。続いて、長州藩の吉田寅次郎(松蔭)も処刑が近いと、瓦版は伝えていた。
歳三は、この吉田のことが気にかかっていた。勿論、話をしたことも逢ったこともないのだが、優れた人物であることは耳にしている。試衛館に度々助っ人に来てくれている飯田町の神道無念流の道場の剣客から聞いているからだ。
ここには塾頭に桂小五郎をはじめ、高杉晋作や品川弥次郎等、後に維新で活躍する長州の新鋭が集まっていて、それらは皆吉田の薫陶を受けていた。
後のことだが、慶応4年になって、歳三は宇都宮で受けた傷を癒しに会津に逗留したことがある。七日町の清水屋と言う旅籠に一月ほど落ち着いたのだが、そこは嘉永4年、吉田松陰が肥後の宮部鼑三(池田屋事変で横死)と東北へ旅したときの宿でもあった。
吉田の『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂』という辞世の句は、歳三の辞世の句に強い影響を与えている。 
よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂は東の君やまもらむ
試衛館のあるのは柳町の中心から東のほうへわずかに行った坂の上だったが、南は江戸城、北は戸塚、西は、若松、河田、内藤新宿、東は筑土八幡、伝通院(浪士組が集合した)方面で、柳町から北を眺めれば、まだ田畑や雑木林が目立っていた。

急激に寒さが増してきたせいか、土方歳三も、だんだん朝起きるのも億劫になってきたが、眠い目をこすりながら顔を洗いに、井戸端にやってきた。
と、先に起きていた若者から不意に声がかかった。
「土方さん、ここのところあの刀見ませんが、何故、差さないんですか」
天保13年生まれの総司、今年で18歳になる。筋肉質の眩しいほどの白い肉体を誇らしげに見せて、井戸端で上半身裸になり、手ぬぐいで首筋をぬぐっている。
歳三の顔も見ないで言った。
足音で、誰だかわかるのである。
「なんだ、藪から棒に。朝からくだらないこと聞くな。……人に預けているだけさ」
と、誤魔化した。

総司には、歳三が嘘を言っているのはわかるのだが、どうして質なぞに入れているのかがわからない。勿論金が入り用だからなのだが、純粋なこの男には、色街や遊郭で金を落とす意味がよくわかっていない。

その程度に世間知らずで、純粋だった。
物心がついた10歳のころから、何しろ剣一筋で育てられてきた。いや、もっと正確に言えば、5~6歳の頃からだろう。そもそも沖田家は、剣術にはそう熱心でもなかったが、何しろ、すぐ近くにいる親戚の井上本家が天然理心流に余念がなく、幼い頃から総司は、井上の世話になって育ってきている。

総司は幼少の頃は宗次郎とも言ったが、天然理心流の三代目宗家、近藤周助に11歳のときに預けられた。勿論、幼くして天稟の才があったからだ。それは誰もが認めることであったので、早いうちにどこかのよい道場に内弟子として預けたほうがよいと周りの者たちも考えていた。

たまたま、親戚筋に当たる井上本家の次男で、源三郎の兄に当たる松五郎が周助門下だったので、世話になることになった。松五郎自身が八王子千人同心の世話人をしていて、剣は天然理心流だったし、弟の源三郎も幼い頃から習っていた。
武蔵野、とりわけ日野という地域では、天保あたりから弘化、嘉永、安政と至るに及んで天然理心流が盛んであったし、師匠の周助も養子で既に免許皆伝に上っている島崎勇も、多摩地区をしじゅう指南に訪れていた。

その理由としては、土方歳三の義兄の佐藤彦五郎が日野宿の名主で、宿場の治安維持、安全対策として嘉永2年の頃から、この流派で剣術の稽古を始めていたからだ。天然理心流を始めるにあたっては、当然、松五郎の世話になっている。

佐藤家と井上家は目と鼻の先であったが、そのことばかりでなく、同宿の引率者としてこの二人の親交は肉親と同等のもがあった。松五郎が将軍のお供で上方へ行っているときも、日光勤番で赴任しているときも、手紙で互いに近況報告をして身の安全を祈っている程である。

総司が18にもなって世間知らずなのは、彼が純粋だったからという意味合いだけではない。預けられた先の、近藤家にはそうするだけの余裕がなかっただけのことである。むしろ、借金の使いに何度かいかされて、さすがの総司もほとほと嫌気がさしてきていた。

もう、この頃には、どこでもいいから試衛館さえ出られればいいと思うようになってきていた。その総司の夢が叶えられて京都に行けるのは、あと3年我慢しなきゃならなかったわけだが。

せっかくノブ姉さんにせがんで買ってもらった10両もした長刀だったが、歳三の手元にはもうなかった。
総司の思っているとおり、質に入れてしまったのである。

何故そんなに金が必要なのか。
25歳といえば男盛りである。歳三だって、少しは女っ気のある盛り場で遊びたい年恰好である。
それに、歳三ほどの色男を、世間の女たちは放っておかない。ここ、試衛館のある柳町界隈の娘たちの間でも、土方歳三の評判は大したもので、誰が最初に彼を射止めるかが噂の種にもなっているほどだ。

近頃歳三は、町娘には手を出さないようにしている。10代の頃、随分と失敗した経験があるからである。最大の失策は、奉公先の娘に手を出し、間違って稚(やや)を作ってしまったことであった。その時は、彦五郎義兄さんや為次郎兄さんに世話になって、金でようやく事を収めたのだが、二度とあんな経験はしたくない。だから、町の女に手を出すときは、祝言を挙げる時だと心に決めていた。

そうはいっても、血気盛んな年頃でもある。からだは我慢してくれない。だから、最近では、吉原まで通っている。
ここが不思議なところだ。
歳三の今の身分では、吉原に通い続けられるほどの金があるはずがない。せいぜい岡場所である。

江戸の頃は、お上に認められている公許の遊郭は新吉原だけであった。この吉原以外はすべて総称して岡場所といわれた。
岡場所の中で、最も人気のあるのは深川である。ここには辰巳芸者という玄人がいて、何しろ気風がいいので人気があった。辰巳の由来は、江戸の中心江戸城から見て巽の方角(東南)にあたるからであるが、気風のよさは、もともと男が着る羽織を身に着けて男風の名で座敷に出たため人気が上がり、羽織芸者とも言われた。

歳三は、深川には一度しか行かなかった。
どうも、肌が合わないのである。あんな男みたいな意気のいい女はいやなのだ。この男は、若い頃から女に癒しを求めていた。
自然、年上が好みなのである。
深川のほかに、根津、谷中、芝明神や麻布氷川なぞにも通ったことはあった。これらは伏玉屋といって一見お茶屋のようではあるが、中では子供を抱えて自家営業をする遊女がいた。



つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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