村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

王さんと総司、歳三と菜葉隊---2

『なでしこジャパン』が国民栄誉賞
――王さんと総司、歳三と菜葉隊 ~~2~~



話があちこち飛んで恐縮だが、慶応4年3月初旬、江戸に戻った旧新選組は、甲陽鎮撫隊を組織して甲府城へ向かった。
途中、勝沼の手前で敵の襲撃に逢い、鎮撫隊の兵士たちが逃走してしまって戦えないので、加勢を求めて土方歳三が神奈川へ向かったことがあった。

その先、土方歳三がどうしたのかは、詳細は伝わっていない。
わかっていることは、この策略は失敗し、つまり、横浜の菜葉隊が応援に来なかったことだけだ。

この菜葉隊、どういう組織だったのか、あまり紹介はされていない。
調べてみると、

 ★ 『菜葉隊』という名称は、鮮やかな緑色の色彩の羽織を制服としていたから、この名がついたといわれる。袴まで緑色だったとも言われる。

 ★ その設立は良くわからない。
慶応3年になって出来たという説を言う人もいるが、文久年間以前からあったように思えるが。

当初の目的は、天誅と称する暗殺が横行していた江戸近辺で、幕府が横浜の外国公館を警備するために設けた警備隊だったということだから、慶応3年では遅すぎる。
怪しい攘夷の浪人どもを取り締まるのが任務だったという。

 ★ 隊員数は、2千名近くいたというから、相当な組織だ。(最初からいたとは思えないが)そして、外国の軍隊から訓練を受けていたから、かなりの戦闘能力があったと思われる。

 ★ 慶応4年の4月に入って、江戸城は無血開城されたが、菜葉隊も解散となった。その後、大部分は彰義隊の一部に合流したが、一部は房総半島で官軍と交戦したという。
最後は、市川宿を守備していたが、戦火にあったので、江原素六の命令で部隊を解散したという。

この江原素六という人、麻布高校の創設者として有名である。
だが、出自は、徳川直参の最低ランク『黒鍬(くろくわ)者』(十二俵一人扶持)であった。
この年俸では、とても家族は養えない。
だから、内職をする。
江原家は、楊枝作りをしていたという。

この『黒鍬者』とは、
聞きなれない一団だが、その仕事というのは、成る程、聞いてみると必要な任務だということが、良くわかる。
戦国時代、戦闘する兵士ばかりでは戦は成り立たない。
鎧兜や刀、鉄砲を用意する部隊から食糧部隊などがいる。
この他予測される戦場へいち早く赴いて道路の普請をする部隊がいた。
これが、それだ。
その際に『鍬』が必要になる。この部隊はそれだけでなく、敵情の偵察から放火までやったという。
また、城作りも得意だったといわれる。安土城や大阪城の石垣は、黒鍬の仕事とされる。

江戸時代に入って、平和が訪れると、黒鍬の任務は城内の清掃や雑用、維持管理などの仕事となり、形ばかりの直参となる。
しかし、おまけの直参で、いわゆる旗本や御家人といった正規の家来に入れてもらえてない。それ以下である。だから、中間とか小者とかいった身分たちと殆んど変わりはなかった。
もともと力仕事が主なので、非常に気が荒く、彼らの多くは、乱暴な振る舞いが多かったとも言われる。

江原家は、極端に貧乏だった。
家族全員で内職をした。
素六も幼い頃から、楊枝削りを手伝わされた。

だが、素六は、子供ながら記憶力が抜群で、四書五経などをどしどしそらんじていったといわれる。
だが、父親が学問嫌いで、「学問で飯が食えるか」「職を身に着けろ」と、決してわが子に勉学をさせなかったという。

それでも、世間は素六の才能を見逃すわけには行かず、その頃幕府の唯一の官学である昌平黌に通わせたいと思う人が出てきた。
何度も通って父の源吾を説得しようとしたが、父は許さなかった。
「他人の子に、余計な口出しは迷惑千万でござる。どうぞ、お引取りくだされ」
「学問で、飯は食えぬ」
「二度と、当方の敷居をまたぐことはご遠慮ください」と。

長年徳川家に仕えてきた血筋は、肉体労働者であったのだ。
だが、それでも、素六の素質に惚れ込んだものがいたのだろう。
何度も通ってきた。
そして、父は、とうとう根気負けしたという。

勝海舟も若い頃、オランダ語を勉強するために、ズーフ・ハルマという辞書を欲したが、極貧だった故に買うことが出来なかった。
すると、援助する人が出てくるもので、永井青崖という人が無償で貸してくれたという。
海舟は、この辞書の複製を2冊、短期間に作ってしまった。
一冊は自分の勉学用に、もう一つは、生活のために売却したという。

吉田松陰の場合も同じで、長州藩のお偉方の援助があって、有能な若者が成長した。
素六は、昌平黌で頭角を現してくると、幕府の講武所で学ぶようになった。ここで、洋式の調練を学んだ。

幕府は、この頃、横浜の外国公館を警備する必要から警備隊を設けた。素六は、講武所で学びながらこの仕事にもつくようになったという。21歳だったというから、文久3年か。丁度、浪士組が京都に上洛して、新選組が誕生した年である。   (つづく)
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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