村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

王さんと総司、歳三と菜葉隊---3

『なでしこジャパン』が国民栄誉賞
――王さんと総司、歳三と菜葉隊 ~~3~~(最終)


前回、江原素六という人について少し触れた。

さらに調べてみると、
彼は、徳川幕府講武所の教授方でありながら、佐久間象山の塾に通って、洋学を勉強したいと願ったらしい。

だが、佐久間象山はその頃京都にいたので、弟子の松代藩士蟻川賢之助という人についた。
江原家は、『黒鍬一族』で徳川の最下級直参ながら、直参としてのプライドは相当なもので、松代藩士の陪臣なぞに学問を習うなどとは、持っての他ということで、家族から猛反対を受けた。

江戸時代の、直参旗本・御家人の他藩に対する差別意識というものは格別なものだったらしい。
特に江戸では、徳川様のご威光というものが何物にも変えがたいほどの有り難味があったのだろう。

ここ日野あたりでも、百姓や町人でさえ、徳川様の直接管理なさる土地として、年貢の軽減措置もあったというから、御奉仕精神にはひとしおのものがあったに違いない。

文久3年に浪士組が募集されて、意気揚々と上洛して行ったときの心境も、『日の本』を守ろうという意識よりも、会津あたりと同じで、将軍様の守備と窮地にある徳川様の救援という意識の方が強かったのかもしれない。

土方歳三や義兄の佐藤彦五郎なども、近藤の攘夷思想と違って、むしろ徳川様の危機に際してお役に立とうという意識の方が強かったと思われる。でも、彦五郎は近藤と義兄弟の契りを交わしているから、多少の攘夷心はあったのではないか。
歳三には、あったのかーーー。

そのぐらい、江戸にいるものは、地方のモノどもに対して差別意識があったに違いない。
何にもまして、将軍家が絶対なのだ。
無理もない。
250年も権勢を誇っていれば、そうなるだろう。

日本の都といえば長らく京都だったが、徳川幕府が開けてからは、800万石と豪語していた。その頃、京都にある朝廷には3万石程度しか与えていなかったのだから、そうなるのも仕方がないか。

残念なことに、明治になって平成になっている今でさえ、そのように、地方に対して優位な意識の人がいる。
僕のいる多摩地区は、東京都なのだけれど、23区内に住んでいる人たちからは、しばらく都下と呼ばれていた。
手紙などの宛名書きにも、『都下 日野市○○町ーー』なぞと書かれていたのだ。

正直に言うと、僕は生まれたのが杉並区の西荻窪で、そこに30年間は住んでいた。もうすぐそこが武蔵野市の吉祥寺で多摩地区なのだが、すれすれで杉並区民である。
大学まで出たのだが、恥ずかしいことに、その頃、東京に日野市という行政体があるのを知らなかった。その横にある多摩市も稲城市もだ。
「へえ~、そんな市があるの」

ついでに言うと、僕の姉は世田谷の成城学園に住んでいる。あの高級住宅街である。
でも、あそこは隣りの調布市と接しているから、ちょっと行くと調布市入間町なのだ。
姉の住所は、残念にも、調布市だった。
それだけで、たいしたことはなくなる。

僕は、駄目な学生だった。
でも、僕だけではなかった。
東京の23区にいる人々は、同じ東京都なのだけれど、多摩地区に対しては一段下に見ているところがある。
そんな程度である。

ましてや、江戸の時代である。
今よりもっとそういった意識は強かったことだろう。

話がそれまくった。
元に戻す。
江原家は、長らく『黒鍬族』として、幕府の最下級の侍だったが、直参としてのプライドが江戸の末期になってまで強かったことが伺える。

素六は、佐久間象山の塾で洋学を学び、後に昌平黌の教授方になった。
横浜で菜葉隊の幹部になったのは文久2年の頃らしい。そこに、そう長くはいなかったという。だから、歳三が慶応四年の3月初旬に駆けつけた時は勿論いない。

新選組については、わからないことがたくさんあるが、このときの歳三の行動も、いまひとつ不可思議だ。
甲陽鎮部隊が勝沼の戦闘を前にして、兵隊の補強のために独り横浜にとんぼ返りして、菜葉隊に加勢を頼んだという。
実現不可能だとわかっていても、これしかないからやるということか。

この隊に、話のわかる知己でもいたのだろうか。
歳三は、4~5年は京都にいたのだから、このあたりの人々に知り合いはいそうもないのだが。
そこいらあたりが、歳三の『当たって、砕けろ』精神で、一つの魅力なのかもしれないが、今で言う、『ky』かもしれない。
多くの場合、鼻も引っ掛けてくれないだろう。

だって、『願い』の筋の内容が内容である。
相手は、下級とはいえ、将軍家の直参連中である。
百姓浪人軍団の、あの新選組に加勢しろというのだ。
意気揚々の官軍には向かって、悪くすれば、死ぬのである。
浅草の弾左衛門の配下の者でさえも、「とんだ貧乏くじだ」と、次々に逃げ去ったというのだから。

素六はその後、官軍に抵抗を続けて上総、下総あたりで抵抗を重ね、最後は市川に屯集したというから、そこで土方歳三とは対面していたかもしれない。
でも、もしかすると、素六は慶応元年に偵察・伝令・番兵などの任務を負った撒兵隊中隊長として京都、大阪あたりに出張しているから、歳三とは京都で面識があったかもしれない。すれば、歳三が素六を頼ったということもありうることかも。

だが、歳三は宇都宮で戦闘を交えたが、素六は抗戦派ではなく恭順派だったといわれているから、多くの幕臣とともに静岡の沼津へ移動した。
この地で、様々な商売をしたという。
どれ一つをとっても、うまくいかなかった。
でも、学校を設立した。
後に、麻布中学を作った。
そして、そういう人が時々いるのだが、敬虔なクリスチャンになった。あの竜馬を斬ったといわれる今井信郎も、晩年、洗礼を受けている。



おわり
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プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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