村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

土方歳三の後姿---2

このタイトルで、再び書くつもりはなかったのだが、成り行きでそうなった。
先日、函館に3日間いた。

函館の飛行場から、僕の著作を扱ってくれている「土方歳三記念館」に、まずもって駆けつけた。

IMG_1874.jpg IMG_1877.jpg

お土産品のコーナーには、土方本としては、確かに僕の本のみが平済みに置かれていた。

IMG_1904.jpg

いつも注文の電話をくれるN女史は、「この本の裏表紙、土方さんの背中が良くて」「函館の土方さん、そのもののようです」と仰ってくれた。

その後、社長のSさんが応接してくれて、約2時間も館内を案内してくださった。
本の感想を語ってくれ、「最初の書き出しが、とてもいい」と力説。
きっと、中島登や立川主税がのこした歳三への回想が清新な感慨だったのかもしれない。

社長も従業員も気に入ってくれているなんて、深く感謝しなきゃいけない。
その社長さんは、大河ドラマのときのことを想いおこしてこういう。
「あの時は、参りました。週刊Bに4ページに渡って書かれてしまいました。『本物の資料がなく、全部偽者で、荒稼ぎ』のような表現」で。

続けていう。

「それなら、一念発起して実物を集めよう」と。
そうはいっても、新選組の実物は、函館ではそう簡単には手に入らない。
「だけど、戊辰戦争で使用したものは、この函館にはたくさんあります」
だから、できるだけ、函館戦争時に使用された実物を買いあさったそうである。

そして、見事な真剣が陳列されている。
僕は、この方面については深い認識があるわけでもないので、多くのコメントは避けるが、『虎徹』や『二代目兼定(通称、之定)』、まさかの『菊一文字』があった。
中には、鑑定書付きの物もあった。
関心のある方は、是非行ってみては。

IMG_1884.jpg

次に、函館半島の坂道に久しぶりでいってみた。
ここに来たのは、かれこれ7~8年前だから、懐かしい。
この数年で、随分と観光地化されて、新しいお店が増えていた。最も、修学旅行やツアーのお客さん相手のお店が多く、近頃流行の現代風のたたずまいである。

IMG_1912.jpg IMG_1909.jpg

IMG_1913.jpg


このあたりに来る目的は、
ロシアやイギリスの領事館やハリストス協会、函館公会堂なぞもあって、エキゾチックな気分に浸るのもいいのだが、僕の場合は、自分の書いた『人間土方歳三』の舞台、“武蔵野楼”のあった場所の確認なのである。

以前にも、このあたりかと見当を付けた場所はあったのだが、確信まではない。
その場所は、常盤坂の中腹の辺り、姿見坂辺りにかけて妓楼が並んでいたと推測していた。

IMG_1916.jpg IMG_1918.jpg

IMG_1917.jpg

今回も写真に撮ってきたが、『姿見坂』の標識には、こう書いてあった。
  【かつて、坂の上にあった遊郭に因む名で、遊女たちの艶姿が見られたことからこの名が付いた。
遊郭は江戸の吉原を模し、付近は茶屋町と呼ばれて賑わいを見せたが、明治4年の大火で消失し、宝来町へ移った。】

このような表現がなされていたので、てっきりそれが正しいと今まで思ってきたが、これは、きっと函館市の教育委員会の学芸委員によって書かれたものだと推測する。

だが、また、違った資料も出てきた

『函館百珍と函館史實』という書物には、こうある。

島と云うのは今の豊川町附近の俗称であった。
此の辺は越後井粟村の松川弁之助、佐藤広右衛門と云う人々が官の許を得て万延元年に埋立てた処である。そして周囲に堀を通じ橋を架して往来したから自然島と呼んだのであろう。

此処へ最初に遊女屋を設けたのは今の安田倉庫の附近であったそうな。
夫れは文久の末から元治の頃であった。
島の盛んであった頃は遊女の賦金が年々三百両も納められたと云うから可成盛ったものと見える。
其後開拓使となって明治六年二月二十七日に台町、蓬莱町と共に豊川町も遊廓指定地として公許されたが翌三月の二十五日の布達で台町、蓬莱町の両廓に移転を命じて居る。夫れで間もなく豊川町の遊廓が廃滅となった。

此島の遊廓で第一の全盛を極めたのは武蔵野楼であった。
今の豊川町の入口の橋の袂に豪気な三層楼の家台骨を構へ、其頃珍らしかった屋上庭園など設け、女郎衆は孰れも一粒選の奇麗首計りと云う素ばらしい景気であった。

図は函館図書館所蔵の武蔵野楼の錦絵にして明治初年のものなり。楼は今の 松田商店の処にして十年程前には武蔵野の土蔵が の印を其儘に残ってあった。

武蔵野楼

今の豊川町というと、函館の有名な「赤煉瓦倉庫群」の辺りである。そこに、武蔵野楼があったという記述である。
それは、文久から元治にかけて作られたが、明治6年の3月には取り壊されて、台町、蓬莱町に移ったとある。

僕は、今回も函館地元の古老たちに、何度か、遊郭のありかを聞いて回った。
大概は、「蓬莱町にあった」という答えだった。
すると、上の書物の記述に合致して、それが正しいような気がしてきた。

すると、これまで、姿見坂と常盤坂のあたりで、丘の中腹であったというのは、ちと違うかもしれない。
豊川町は、もろ、海岸沿いだから。
あるいは、両方にあったか。

まあ、この辺りは、少し違っていても良い。
大事なのは、武蔵野楼という妓楼があったという事実であるから。

つづく
スポンサーサイト
コメント
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015/01/25(日) 15:18 | | #[ コメントの編集]
コメントの投稿
【Font & Icon】
管理者にだけ表示を許可する
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






リンク
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カテゴリー
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新の記事
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

最近のコメント
最近のトラックバック
ブログ内検索
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。