村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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石田散薬―――『人間土方歳三』より その1

自分の拙著のことで、恐縮だが、
今回は、石田散薬のことを話題にしたい。
毎年、灼熱の季節になると、日野のどこかで、石田散薬づくりをやっている。

今年も、
日野宿本陣文書検討会が8月24日に、牛額草(ぎゅうがくそう)の採取をやるという。
興味のある方は、ぜひご参加を。

そもそも、
この薬が脚光を浴びたのは、司馬遼太郎の『燃えよ剣』の中である推測がなされたからだ。
歳三の京都での采配ぶりは実に見事なもので、いったいどこで培われたものなのか、司馬さんも大いに関心を持った。

歳三は、10代のまだ若いころ、
近所の女子供を集めては、牛額草を採取し、それを干して裁断し、焙烙(ほうろく)でいるまでの作業を見事に指導して見せたというのである。
京都時代の、土方歳三の、あの見事な采配ぶりは、いったいどこで養われたものなのだろうと、不思議に思った筆者が、それを「石田散薬」づくりの采配に原因を求めたものであった。

僕は、なにも、原因なぞ求める必要もないと思うのだが、作家の中には、説明したい人もいるのだろう。
大体、人が、優れた行動や結果をもたらすのは、それに対する前兆や経験があってのこととは限らない。
世の中は、「意外な人が、意外なところで、意外な結果をもたらす」ものなのだから。

ところで、
ぼくも、あの『人間土方歳三』を執筆しているとき、エピソードとして、“石田散薬”という小見出しの創作話を載せたことがあった。
本文では、P314にある。

約10ページにわたっているので、
全部を紹介するわけにはいかないが、少し長くなるが、現在の感覚で紹介したい。
自分でも、あのやり取りは、結構面白いと思うので、再現したいのだ。




梅雨が明けた慶応元年、6月のこと。
京都の夏がやってきた。
相変わらず、蒸し暑い。
総司の提案で、嵐山に昼間から暑気払いに出かけることになった。

保津川沿いの料亭で散々飲んだ後、
まだ陽が十分にさしている渡月橋を、屈強な連中がふらつきながら渡っているのだから、不気味である。
それも半端な数ではない。このころの新選組は、隊士の数は優に100人は超えていたから、一般市民は恐ろしくて、つい道をあけて通る。

しかし、この時節の京都では、こうした光景は決して珍しいものではない。
大体、会津からは約1000人も兵隊がやってきて守護職などと言って市内をうろうろしているし、徳川も新選組のほかに見廻組といって旗本連中の治安部隊もいるし、勤王方も徒党を組んでいることもある。
攘夷熱が高まった文久3年のころは、江戸から将軍がやってくるとあって、主だった大名やその家来たちも京都へやってきていたのだから、大変な賑わいであった。

映画やドラマの世界では、
新選組というと必ず、あのだんだら羽織を着ているのだが、残念なことに、慶応年間には、もう彼らは着ていなかった。
はっきりした理由は不明だが、
夜の争い事が多かった割に、あの色では、目立ちすぎるという意見や、いかにも浅葱色(死に装束)というイメージがよくないと感じたのか。
僕はきっと、
若い隊士たちが嫌がったのではないかと、思っている。
街中を歩いていると、「あいつら、新選組だぞ」と、ひそひそ言って恐ろしげにさけられていることが嫌だったから、と。

帰りは、渡月橋を嵯峨野方面から西へ渡る。
渡るとすぐに左へ折れて松尾大社に向かう。
大社の正面鳥居を左に折れれば、四条通だ。
あとは、再び桂川を渡って四条大宮を右に折れれば、今の屯所西本願寺北集会所だ。

土方は、四条通に出て桂川を渡ると、用水のあるのを見つけた。水車小屋の脇に草が群生している。
中に牛の額に似た葉があった。
懐かしい、溝蕎麦(みぞそば)の葉である。
これを別名、牛額草というが、これから例の石田散薬を作るのだ。

土方は、すぐ脇にいた安富才助に銘じて「あの草を刈ってこい」と指示した。
周りにいた連中にも、「おい、お前らも手伝え」

安富に続いて吉村貫一郎が続いた。次に、清原清、田内知、谷周平、佐野七五三助だ。
こういう時は、多くの組織は、新参者が先を買って出るもので、彼らは、その年の4月に入隊したものが多かった。

この牛額草は別名溝蕎麦といわれるもので、京都あたりでは、カエルグサとかギャールグサなどと呼ばれている。

「一体、この草、どうするんですか」と、安富。
「これはな、これから、薬にするんだ」
「これが、薬になるんですか」
「まあ、帰ってからのお楽しみよ」

すると、斜め後ろから声がかかった。
沖田である。
「石田散薬って、やつですよ」
例の甲高い声で、明るく発言する。
「土方家で、昔から作ってきた家伝薬でね、打ち身、くじき、切り傷に効くといわれていますよ」

沖田という人間は、誰に対しても言葉遣いはほとんど変わらない。近藤、土方に対しても、相手が新参であっても丁寧なのである。
だから、稽古が激しくて嫌われている割には、好感も持たれている。
「土方さんはね、二度も奉公に出たんですが、続かなくてすぐ帰ってきてしまう。兄さんたちに、いい加減にどうにかしろと叱られていたんですけれど、うまい養子の口もなかったし、仕方なくて、先祖伝来の薬を売り歩いていたんですよ」
「おい総司、減らず口をたたくんじゃねえ」
さすがに、土方も黙ってはいない。

天下の新選組副長は、怖い人間でなければならない。
土方は、特にここに気を遣ってきていたので、総司の暴露話にはイラついていた。
甘いところは、決して隊士たちの前では、見せない方針だったのだ。

安富才助は、天保10年の生まれだから、総司より三つ年上である。
備中足守出身で大坪流馬術を習得していて元治元年十月の入隊である。慶応元年春の編成では、馬術師範で伍長となっている。
箱館に渡って陸軍奉行添役となり、歳三の死後、明治2年5月16日付で土方家宛に書簡を送り、立川主税にこれを託している(土方歳三資料館蔵)
土方歳三最期の模様を報せた手紙である。
帰京してのち、元隊士の阿部十郎に惨殺されたと伝わる。

慶応元年の夏は、3月に壬生の屯所を引き払った後で、西本願寺を屯所としていた。

つづく。
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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