村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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吉良方からの「忠臣蔵」


暑い夏が過ぎたと思ったら、今やもう冬みたいに寒い。
と、思ったら、再び半袖が欲しくなる日もある。
変な陽気が続く、今日この頃。

僕の職場は、日野市民会館内である。
最近では、愛称がついて『煉瓦ホール』ともいう。
ここの1階に“藝術文化推進室”という名称の部屋があって、そこに火曜日から金曜日まで勤務している。
たった一人である。
寂しいから、お客さんが来ると大歓迎である。

ここの窓からの風景は、とても魅力的で、春夏秋冬、それぞれ気分がよい。
僕の携帯でとった写真だが、ご覧いただきたい。
この前の冬景色と、本日の秋の風景である。もう、葉っぱが落ち始めている。

秋ーー1 (2) 雪景色ーー3 (2)
秋ーー2 (2) 雪景色ーー1 (2)

今は、もう、晩秋で、毎年恒例の産業祭が終えると、色づいた欅をはじめ染井吉野などの葉が一斉に散り始める。
道路に、枯れた葉っぱが激しく落ちてゆく音が聞こえる。
「いよいよ、冬がやって来るのか――」

先週は、小金井で、忠臣蔵のお話をした。
と言っても、先方からの注文で、「たまには、吉良方からの話が聞きたい」というリクエストだった。

僕は、昔からの時代劇ファンだから、忠臣蔵のことは子供のころからあらすじは知っている。
いつでも、話ぐらいはできるようになっている。
だが、吉良を『いい者』にしてのストーリーは持っていない。
ずいぶんと研究して、自分でも勉強になった。

それにしても、
新選組の、あの羽織。
袖の山形の切り込みは、忠臣蔵の討入りの羽織からきていると、もっぱら言われている。

きっと、そうであろう。
近藤さんも、大石の書を手に入れて、日野に送っているくらいだから。
でも、あの羽織が作られたのは、まだ、新選組という名も付けられていない文久3年4月の壬生浪士の頃であり、局長は芹沢鴨であった。
決定権は、近藤より芹沢にあっただろうと思われる。

芹沢は、そんなことどうでもよかったのかもしれない。(お梅に夢中だったか)
「そんなもの、俺は着ない」だから、「お前らで、好きな模様にすればいいじゃねえか」という、ところかも知れない。

あるいは、
芹沢も、大石の大ファンだったかもしれない。
当時、
武士道を真面目に追及する人は、その模範の一番に『大石』を挙げた人は多かった筈だ。

そのきっかけは、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵であったが、その歌舞伎でまとっていた羽織がだんだら模様だったのである。
それに、武士だ、武士道だといったって、誰を模範にしていいかなぞはなかったのである。強さでは、宮本武蔵かもしれないが、武士ではない。
すると、中山安兵衛あたりが出てくる。これも四十七士の一人である。
やはり忠臣蔵だ。

栗塚さんと京都で飯を食っていた時、こんな話が出た。
関西の暴力団の見本は誰だったのかという話になって、清水次郎長か、それとも国定忠治かなどでたが、どちらも違う。
高倉健さんだという。
「へえー」
そんなものかと、びっくりした。
あの当時、健さんの撮影現場では、交通規制から、撮影の許可、弁当の手配まで、地元のその筋の方々がやっていたらしい。

尤も、あの頃、
網走番外地を見た後、映画館から出てくるお客の多くが、健さんのような顔つきだったといわれるくらいだから、頷けるが。


5代将軍の綱吉は、この四十七士の仇討を「見事であった」と、褒め称えたともいわれるが、その逆だとも言われている。
当時、高家筆頭であった吉良上野介を斬るなど、あまりにも無礼千万。
浅野の田舎侍など、ひっ捕らえて、「直ちに打ち首じゃ」とわめいたともいわれている。

しかし、江戸中、評判は大したもので、赤穂の義士たちは大英雄になっている。
寺坂吉江衛門を除いた46人たちは、大名家に預けられた。水野、毛利、松平、細川の四家である。
それぞれの扱いも、街中の酒のつまみになった。

細川家の浪士たちに対する扱いは「武士の鑑」として、食事から娯楽まで、何でも浪士のリクエストに応じて、至れり尽くせりだったといわれるが、一方、毛利なぞは、完全に罪人扱いで、粗末な食事しか与えなかったといわれる。そうした大名は、江戸中の評判が下がった。
あわてた毛利家は、早速、扱いを変えたといわれている。

その位だから、
綱吉だって、浪士たちを無下に殺すわけにはいかないのである。
それでなくとも、『生類憐みの令』などを発して、すこぶる、評価が悪いのだから、火に油を注ぐわけにはいかない。

浪士たちの処分決定は、年が明けても、まだ決まらなかった。
市井の声は、無罪放免である。
それでは、浪士たちにやりたい放題されて、幕府のメンツが立たない。
あの仇討の本懐は、幕府の不公正な裁きに対する見せしめでもあったからだ。
その間、浪士たちは、それぞれの家に缶詰め状態であったが、ようやく、2月4日に切腹となった。

吉良方に言わせれば、「なんで上野介が恨まれなければならないのか」、納得がいかない。
だって、浅野が勝手に斬りかかってきたのだし、吉良は刀を抜くことさえしていなかったのだ。
浅野を殺したのは、幕府である。
それを仇討の対象にされた。
吉良が、浅野を殺したのなら、仇討の相手とされてもいいだろう。しかし、殺したわけでもなければ、斬りかかったわけでもない。なんの抵抗もしていないのに、仇討とは合点がいかない、というわけである。

一応、道理は通っている。

吉良を鍛冶橋の屋敷から本所へ移すのを決定したのは、事件があってまだ半年もたっていないころである。
幕府は、あまりに世間の風当たりが厳しいので、責任を吉良方に押し付けるために、いかにも悪いのは上野介だといわんばかりの仕置に変えてきた。

上野介を隠居させることにした。
事件が起こって、あのような裁定を下した大目付や目付、高家などを、お役目取り上げ、降格処分とした。
そして、
いつでも、討入りをどうぞと言わんばかりの吉良に冷たい態度であったという。

結果、
討入り大成功である。
その挙句、
吉良の息子で当主の義周(よしちか)は、蟄居謹慎で高遠にお預け、お家断絶である。義周はその3年後には、若くして病死した。
なんで、吉良家が断絶させられるのか。
討入り時と、その後の対応が悪いという理由らしい。

元禄の世から平成になった今日、約300年以上経過したが、今もって吉良の評判は良くない。おまけに、吉良の領地であった愛知県の吉良地方の印象もよくない。
現地へ行けば、「この黄金堤(こがねつつみ)は、上野介さまが築造してくれた有り難い堤防なのです」、と観光地になっている。
が、最近の研究では、その堤は、どうやら、上野介が生まれる前からあったらしいことが分かった。
なんとか、名誉回復の道はないものか。

そういえば、幕末のやくざで吉良地方の人がいた。
吉良仁吉という義理人情に熱い人だ。あの有名な古賀メロディー『人生劇場』にも、確か3番だったか、歌詞に出てくる。
「吉良の仁吉~は 男で~ござる」
「俺もなりた~や、仁吉のよ~うに」だったか。
もう一度、人生劇場をはやらせてやったらどうか。

この事件、
吉良方にとって、踏んだり蹴ったりである。
すべては、幕府の対面、メンツで進められた。
柳沢吉保の采配だったか。
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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