NHKの会長の机には、常に、全国各地から大河ドラマの主人公に、当地の英雄を題材にしてくれという陳情書類が積まれている、と聞いた。
僕が、『新選組!』を担当していたころの話だから、もうかれこれ10年も前のことになるが、おそらく、今もそのことは、変わらないであろう。
大河ドラマの主役の出身地だったり、活躍した舞台であったりすると、大勢の観光客を呼ぶことができるから、各地とも、お客欲しさにお願いするのである。
でも、NHKの下請会社が、大河に関連したメイン会場づくりを作れと、法外な料金を要求してくるのが実態のようだ。
それに応じなければ、一切、大河関係のキャラなどは使わせないという、締め付けである。
何せ、主役の近藤勇に香取慎吾、土方歳三に山本耕史という表現さえ、広報をはじめ様々なPRに、使わせないのである。
当市も、それに困ったことがあった。
『新選組!』の時は、少しだけ応じて、なんとか、キャラクターを使わせてもらったことがあった。
僕が、NHK対応の最初の窓口だった。
まったく、要領がわからなかったので、先進地に聞いてみた。
うちの前年が金沢市と石川県の「利家とまつ」であった。
2度、足を運んで、実情を聞いた。
次に、当市に好意的に教授してくださったのが、赤穂市の担当者だった。
赤穂市は、『忠臣蔵』で、すでに4回、経験しているということだった。
「とにかく、お金をたくさん要求してくるが、その割には、大した施設は作らないから、気をつけなさい」と、忠告してくれた。
赤穂市は、結構な赤字を出したらしい。
今年の会津は、たくさん、お客が押し寄せているというがーーー。
先日、妙な手紙が来ていた。
平成25年5月吉日
村瀬彰吾様
懐かしむ会幹事
B市長と新選組フェスタを懐かしむ会(思い出づくり)開催のお知らせ
八王子のホテルで、懐かしむ会をやるらしい。
実は、B市長は、5期の在任を終えこの春退任した。
この間、僕もいろいろ、この人とは仕事で思い出はあるが、とりわけ新選組では、その思いも深い。
最初の出会いは、ごみの改革であった。
ワースト1の当市が、多摩地区トップクラスに改善された。
あの時、ごみ課長であった僕に、「よく、やってくれた」と、喜び合った。
次に、新選組担当主幹になった。
そして、新選組のふるさと博物館の館長だった。
この頃、あの小説を書いた。
この前市長と一緒に、新選組フェスタを懐かしもうというわけだ。
僕にも、お知らせが来たので、行ってみるつもりだ。
そこで、本日の本題である。
“高島嘉右衛門”という人、意外と知られていない。
あまりにすごい人なので、どこから説明してよいやら、迷っている。
早い話が、
三菱財閥を作ったあの岩崎弥太郎より、もっとスケールがでかくて偉大なる実業家が、幕末の横浜にいたということ。
そして、儲けたお金のほとんどは、公につぎ込んだ。
例えば、横浜の街を作り、初めてガス灯をともし、新橋から横浜に海を埋め立てて列車を通した。
だから、今だに、横浜には、彼の功績をたたえて、高島町という町名も存在している。
また、その予言能力から、時の総理大臣をはじめ、権力者たちが政治的判断に困ると、彼の予知を頼りにして群がってきたという。
一説によれば、それで、日清・日露の戦争も乗り切ったといわれている。
つまり、『勝てる』というお墨付きをもらったというわけだ。
この人、天保3年生まれで、土方歳三より3つ上だ。
長寿を全うして大正3年に82歳で亡くなっている。ちなみに、長倉と斉藤(一)は、大正4年まで生きたから、殆んど新選組の面々と同時代の人である。
だが、一般に、意外と知られていない。
「国士」という言葉がある。
国を想い国を憂え、国の為に優れた働きをなす者を指して言う言葉で、「国色」「国香」とも言う。最初に思い浮かぶのは、吉田松陰あたりか。
でも、高島嘉右衛門こそ、真にこの名に相応しい存在だったのではないだろうか。
この人、
なぜ、実業家として、そんなに莫大な蓄財ができたかというと、一言でいうと、『超能力者』だったからだ。
もう、お気づきの人もいるかもしれないが、
この人の名=“高島嘉右衛門”の高島は、あの「高島易断」の創始者なのである。

僕がなぜ、この人を知ったかというと、もう、約30年以上も前、高木彬光の『大予言者の秘密―易聖・高島嘉右衛門の生涯』を読んで、大きな衝撃を受けたからであった。
でも、その頃は、こうしたブログや文章を書くなぞということはしていなかったから、ただ、胸の中に秘めているだけだった。
だが、つい数日前、突然僕の胸に火がついてしまった。
あの高島嘉右衛門のお墓に偶然出会ってしまったのである。
今、僕が担当している講座のウォーキングの下見に品川宿へ行ったのだが、泉岳寺もそのルートに入れた。
過程を省略して、結果だけを言うと、その墓は、赤穂浪士四十七士の墓のある泉岳寺境内にあったからだ。
しかも、その場所が、大石や四十七士の墓の入り口のすぐ右側にあった。
かなり、立派なのだが、一般的には、殆んど伝えられていない。
それでは、嘉右衛門の超能力の一端を紹介しよう。
文章にすると長くなるので、箇条書きにする。
大実業家として、大預言者としてーーー
★ 安政二年の大地震後、木材需要に乗じ大儲けし、深川で押しも押されもせぬ大材木商となる。安政二年秋、なまずが異常発生している。
心身統一して観音経を誦して筮竹を切ってみた。
見よう見まねであった。
出た卦は『離為火』(江戸の町が、大火に見舞われる)。
これは、大変、一大決心をして、千両の大金を無担保貸しで頼み込む。
そして、材木を買いあさった。
10月4日、大地震。
江戸百万の住人のうち、20万人が死んだ。
材木の値は、3日で4倍に跳ね上がった。儲けは、2万両であった。
この時、嘉右衛門、わずか22歳であった。
ところが、よいことばかりではない。
翌安政3年8月15日、この日は空前の台風に見舞われた。
何せ、永代橋の橋げたが折れて、橋全体が崩れ去ったほどである。
この時、嘉右衛門の所有する深川の材木すべてが、大波に流されてしまう。
そして、逆に、2万両の借財ができてしまう。
嘉右衛門のこの時期の心境、「毎日毎日、重い石を背負って激流を遡るような思いだった」と述懐。
★ 安政6年6月2日、横浜港開港の日に、「肥前屋」という屋号で横浜に伊万里焼の店を開店し、大儲けするが、貨幣の売買で牢獄入りに。鍋島藩直売店のようなものだったので、他店よりもはるかに安く、品物も豊富で、外国人客だけでなく、日本人客も多く利用するようになり、大変な繁盛ぶりとなった。
それだけなら問題は起こらなかったのだが、貨幣の交換、売買に手を出してしまった。
(僕は、あの小説『人間土方歳三』のP65に「輸出と不平等条約」という見出しで、その当時の小判と銀貨との交換比率について詳しく述べたが)
諸外国との貿易が始まってからというもの、日本の金貨が大量に、海外に持ち去られた。
簡単に言うと、
外国から持ってきたメキシコ洋銀3枚で小判1枚に変えられたのだが、その小判を、本国に持ち帰って、逆に銀に交換すると9枚になった。
濡れ手に粟とは、このことである。
当時、借金苦にあえいでいた嘉右衛門は、これに手を出してしまった。
これで、大分借金はなくなったのだが、ご法に触れた。
呉服橋の北町奉行所に、自首することにした。
この時、彼は29歳、万延元年(1960年)である。
つづく
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