村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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清水次郎長もいたなあ―――2


次郎長の前半生は

清水次郎長の大変身、大活躍を語る前に、彼の人生の前半を振り返ってみよう。
彼は、維新の年に、自分のなりふりを180度転換させている。

●文政3年 1820年 
  1月1日に、駿河国清水町に、船頭の次男として生まれている。
  名は、長五郎。その後、叔父次郎八に養子として引き取られるが、次郎八の長だから、次郎長と呼ばれた。
●文政12年 1829年
  性格があまりにも粗暴なので、由比倉沢の伯父の元に預けられる。
●天保5年 1834年
  15歳の時、百両の金を持ち逃げし、それを元に米相場で巨利を得る。その後、旅の僧侶に、余生が25歳と告げられ、任侠の道へ。
●天保13年 1842年
  酔って帰路の途中、闇討ちに会って瀕死の重傷を負う。それを機に、生涯、酒を断つ。
賭博のもつれから人を斬り、清水を出て無宿者となり、三河の吉良の武一より剣術を学ぶ。
●弘化2年 1845年
  清水に戻り、甲州紳の文吉と駿州の和田島の太左衛門の喧嘩を仲裁し、一気にその侠名を高める。
●安政5年 1858年
  甲州、祐天の親分隠居を斬る。役人に追われた長五郎は、瀬戸の岡一に家族と子分たちで身を寄せるが、その後、名古屋で奥方お蝶は、病で逝く。
  (その後、文久3年2月、祐天仙之介は子分を連れて『浪士組』に加入、上洛し5番隊へ。清河八郎らと江戸へ戻った後の10月、同じ新徴組にいた男に仇討に会う。)
●万延元年 1860年
  森の石松、金比羅神社からの帰り、都田の吉兵衛・梅吉兄弟に惨殺される。
●文久元年 1861年
  次郎長、子分たちとともに、石松の仇を晴らす。
●文久2年 1862年
  甲州黒駒の勝蔵は悪事の限りをつくし、捕吏の追うところとなる。遠州に逃れてきたが次郎長は勝蔵を甲州に追いやる。
●慶応2年 1866年
  吉良の仁吉に加勢し、荒神山にて穴太徳・黒駒を倒す。
その後、次郎長の貫録が轟き、全国で有名になる。
●慶応4年 1868年
  駿府町奉行が廃止され、浜松藩家老伏谷如水が駿府町差配役となる。
  伏谷に見込まれた次郎長は、その際、街道警護役に任ぜられ、それまでの罪科を免じられ、帯刀を許される。

ここまでが、清水次郎長の前半生である。
ここから、彼が没する明治26年までの後半生が始まるのだが、波
乱万丈の出来事を、一つ一つ紹介してゆきたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「戦」に負ければ、野に下るだけ

関ヶ原の戦で徳川が勝ち、豊臣を完全消滅させて栄華を誇っていた徳川であったが、260年経過して今度は負けた。
ただ、それだけのことである。

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前回のこのコーナーで、上記の文章を書いた。
こういうことが興ると、権力の構造が変わるのだから、警察・司法
権力も治安体制も変わることになる。
(余談だが、数年前、民主党が政権をとったことがあったが、あの時、森喜朗という元の総理大臣が地団太踏んで悔しがった。「野に下ることとは、こんなにもつらいことか」と。その後、今は、再び政権の座に返り咲いて大いに喜び、自分はオリンピックの責任者になって意気揚々としているが、もう大分お歳のようで)

慶応3年から4年にかけて、15代将軍慶喜が政権を返上したが、実は、彼には思惑があって、その後も自分が「政」を行なえるように、周囲に準備させていたことは明白になっている。
でも、幕臣たちの多くはそんなことは知らないから、右往左往して、何をどうしてよいやらわからない状況であった。何しろ、260年以上も続いてきてる政権なのだから、崩れ去るなんてことは夢にも思えないし、思いたくもない。
だが、現実に、将軍が大政を奉還してしまった。
悲しくも情けない心境であったし、これから、家来や一族郎党をどのように面倒見ていくのか、路頭に迷った。
そして、慶応4年の8月以降、結論がないまま成行きで、新天地の清水港へ向かったのである。この人数、約18000人から20000人だったといわれる。
当時、清水港の世帯が全部で900だったというから、この幕臣家族たちが到着して、どのように生計が成り立って行ったのか、きっと悲惨な実態であったであろう。
後に、ゆっくり話すが、次郎長が幕臣たちの生活のために、かなり腐心して奉仕したことが伝わっている。

僕は思うのだが、慶喜が本心で政権を返上してれば、鳥羽伏見の戦も、その後の戊申の役もなくて済んだと思う。
現世の人は、竜馬が生きていれば、戊辰戦争は起こらなかったなんて言う人が多いが、そんなことはない。それは、後世になって、坂本龍馬を過大評価しすぎて、そうした風潮を生みだしているだけだ。
慶喜に野心がなく素直に政権を返上していれば、徳川家の領地も財産も、あそこまでみじめな仕打ち(駿河70万石)を受けないで済んだと思われる。
官軍側の幹部たちは、そこまで悪人ではない。恭順している相手を攻め落として殺すなどという仕打ちはしないはずだ。これは、当時、イギリスをはじめ、フランスやオランダなど、先進国がそうしたことを許さないからでもある。
現に、当時のイギリス公使パークスは、「白旗を上げている相手を殺すことが、武士道か」と、西郷に迫ったといわれているからだ。
西郷は、こういうことにはことに敏感で、後に、弟子の黒田清隆に『降参した藩主自らが白袴をはいて責任を取り、切腹の覚悟である。庄内藩には、寛大な処置をするように』指示しているし、榎本が函館で降参した時も、西郷は内緒で函館湾にいた。黒田の処置を確かめたかったと思われる。そして、函館政府の幹部連中誰一人殺さないで、東京に連れて行き、中野の刑務所に入れた。
その後、刑務所内では破格の待遇に驚いたばかりか、早々に釈放されて、その後、榎本を明治政府の大臣にまで抱えている。

もし、土方がこのなかにふくまれていたら、―――。
僕は、そうして欲しかった。
もし、そうだとしたら、榎本と一緒に蝦夷地に派遣されて、ロシア対策に当たっただろうし、歳蔵ほどの才能があれば、その後の日露戦争に東郷平八郎以上の働きがあっただろうと想像するからだ。
この時代の英雄たちは、人生の前半と後半が大きく変貌している人が多い。土方歳三も、次郎長同様、後半生が劇的に変わった可能性がある。
話しが、飛躍しすぎた。

だが、慶喜は新政権でも自分がトップの座に座って両院を支配しようとした。
それが、西郷や大久保を怒らせた。
危機を感じた官軍側は、朝廷を前面に出して戦を巧妙に仕掛けてきたのである。そして、戊辰戦争へとつながる。

次郎長の恩人、浜松藩家老伏谷如水

駿府では、徳川の時は町奉行が治安を仕切っていたが、慶応4年に入ってからは、幕藩体制が崩れているのだから、もういない。しかし、ここだけは誰かが権力を振るわないと、社会の安寧が保たれない。

そこで、浜松藩の家老伏谷如水が3月22日、駿府町差配役となって警察長官となったが、4月26日には、駿河、遠江、三河の裁判所判事も命じられた。
伏谷は、自分一人では、すべてに目が届かない。
誰か、有能な補佐役が必要なのだが、この街道筋を仕切れる人物が欲しかった。調査をした結果、清水に住む山本長五郎という人物に着目した。早速部下に命じて、足袋屋に変装させて次郎長宅に入り込み、人物を観察させ、伏谷に報告させたのである。

その結果、一介の博奕打ちではないことが判明した。さすが、東海道を仕切る大親分にふさわしい振る舞いと人気であった。
本当の侠客とは、この人のような人物を言うのだと思った。
(侠客――弱きを助け、強気をくじく人物)

次郎長のところに、駿府町差配役から出頭命令が来た。
「今、この街道筋では、事態が逼迫していて物騒なことが多い。取り締まる役人側も徳川だの官軍だのとはっきりしない上、ゆすり、たかり、人を殺めることが横行していて憂慮している。
そこで、その方に頼みがあるのだ。市中警護役を引き受けてもらいたい」
「とんでもございません。私のような身分の卑しい無頼の徒が、おかみの御用なぞ、勤まるわけがありません。むしろ、いつ捕まるか、びくびくしている毎日でございます。どうか勘弁して下せえまし」
このような返事が返ってくることを想定していた如水は、
「おい、入れ」
1人の役人が入ってきた。
次郎長、この男を見てびっくり。なんと、昨日も自分の家にやってきて足袋を売りつけた、その男だ。あまり熱心なので、いくつか買ってやったが、数日前から、この近辺を徘徊している商人である。そう、如水が放った探索方であった。
次郎長の言動は逐一、如水に報告されていたのである。
「自分を覚えているか」
探索方は、次郎長の顔を見て、ニヤリとした。
「いや、まいりました」

判事となっていた如水は、次郎長の態度にすっかり惚れ込んでしまい、うわさ通りの大親分に街道筋の治安を任せることにした。

積年の次郎長の罪科はすべて免除され、それどころか、平民としては破格の帯刀を許された。
天保13年、23歳の時に国を出て以来、実に27年もの間、常に命を狙われていて、1日たりとも世をはばからないときはなかった長五郎だが、ここに来て初めて、青天白日の身となった。

次郎長の宿敵、黒駒の勝蔵

黒駒の勝蔵は、この頃、甲州の博徒の大親分であった。多くの悪行を重ね、富士山を挟んで、東海道の次郎長とは抗争を繰り返していた。
その勝蔵が、あろうことか、官軍の先方隊として京都から進軍してきた。相楽惣三が組織した赤報隊の参謀として羽振りをきかせていたのである。

次郎長も今は、官軍側の十手を預かる身である。
時は、慶応4年3月。
有栖宮熾仁親王を総督とした慶喜征討軍の先遣隊である。
「あんな悪党が官軍の先方を勤めるなんぞ、許されるものじゃねえ」と、次郎長はいきりたち、子分たちを集合させてゆく手を遮ろうとした。だが、官軍総督府判事の如水になだめられて、悶着は起こらなかった。

その後、勝蔵は、明治天皇の皇居への入城までも、京都からお供をしたと伝えられる。だが、赤報隊は解散され、相楽は偽官軍として罰せられた。勝蔵は徴兵七番隊に編入され、隊はその後第一勇軍隊と名をかえた。
彼は小隊長を任命されたが、江戸を経て仙台まで従軍している。

博徒が何故、重用されたか

幕府は、博徒を取り締まりつつ、治安維持のために利用もしていた。
どうせ、悪行を働くのは博奕打ちをはじめとした悪人どもなのだから、奴らを雇ってしまえば、事件は減るはずだ。それに、事が起こった時は、どこのどいつがヤッタかをいち早く探索できる能力は、与力同心なぞよりも、ずっとすぐれていたのである。
だから、目明しとして雇われていた者たちの殆どは、火消しや香具師、博徒の親分なのである。

また、尊王攘夷運動の激化と暗殺の横行に頭を痛めていた徳川は、博徒の兵力と組織力が魅力であったから、彼らを活用した。
一方官軍側も、博徒の招集を活性化させている。幕府に終われている凶状持ちの勝蔵は、討幕派に入って活躍することになるが、結局は官軍に使い捨てにされて、明治4年、抹殺されることとなった。

つづく
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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