村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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清水次郎長もいたなあ―――3

【家康の上を行く次郎長  ―――?!】
【高島嘉右衛門と親友だった―――?!】


前回は、次郎長の前半生を振り返ってみたのだが、本日は、後半生を見てみよう。

次郎長は、慶応4年を境にして、それまでの前半生とは違って、驚愕の善人に変貌していた。
次郎長のした事業の全部を細かく述べることはできないので、彼の行ったことを列記して、その中で特筆すべきことを詳細に述べる。




1 明治元年9月18日――咸臨丸事件
旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、8月品川沖から艦隊を北へ向けて脱走させた。
途中、咸臨丸が暴風雨により房州沖で破船し、流されたのか、修復のためか、清水湊に停泊した。駿府藩は、官軍を欺いて脱走した船だけに、停泊させることに困惑した。この頃、東北では新政府軍が会津若松城を包囲攻撃中であったし、駿府藩は、幕府軍を説得し箱館行きを中止、降伏させねばならない立場にあったのだが。

 9.18日、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が、とうとう清水港入り、咸臨丸を砲撃した。
そして、副艦長春山弁蔵ら7名を斬殺した。春山弁蔵は長崎海軍伝習所の第1期生であり、草創期のわが国造船界にとって、重要な人材であった。砲撃の間に、乗組んでいた者の大半は海に飛び込み、近くの三保貝島などに泳ぎ着いた。咸臨丸は拿捕され、翌朝、品川まで曳航された。
 そののち、港には、多数の幕府軍の兵士の遺体が港に浮き、次第に腐乱し始めていた。官軍は放置したままで、何ら処置をしようとしないので、漁民たちには漁の邪魔にもなっていたのだが、「賊軍に加担する者は厳罰に処す」とのお触れが出ており、官軍の睨みを恐れて誰も手を出せずにいた。
黙っていられないのが次郎長である。
ただちに子分たちに小船を出させて港に浮かぶ遺体の回収作業をおこない、向島に埋葬、石碑まで建てた(壮士の墓)。
次郎長は官軍から出頭を命じられ、糺問官に「賊兵を葬うとはお上を恐れぬ行動」と詰め寄られる。
次郎長は言った。
「死ねば皆仏だ。仏に官軍も賊軍もない」と、言い放った。
結果的に次郎長にはお咎めなしになったが、背後に山岡鉄舟の影があったとも云われている。
鉄舟は、後に、明治政府の中で、明治天皇の付き人になっている。

勝海舟―山岡鉄舟―清水次郎長の関連がここで出来上がってくる。
山岡鉄舟と清水次郎長の親交ぶりに関心をもった勝海舟が次郎長との会談を望み、鉄舟に頼んだ。
ここで、海舟は、次郎長に意地の悪い質問をした。
家康が、「自分の家来で四天王と呼ばれていた酒井忠次、榊原康政、本田忠勝、井伊直正は、いつでも自分のために死んでくれる」と言ったのを、勝は覚えていて、勝海舟は次郎長に尋ねた。
「よお、次郎長さんよう。東海道一って言われる、あんたほどの親分なら、あんたのために死ねる子分はいってぇどれくらいいるんでえ」。
「そんなもんいやしませんや。―――でも子分のために死ねる親分なら、ここに一人いますぜ」。
世間広しといえども、将軍にしろ、大名にしろ、自分の手下のために死ねると言える人物がどれほどいるだろうか。
海舟も鉄舟も、この一言だけで、次郎長という人物の奥深さ、大きさに感嘆した。

2 牧の原の開墾事業
3 徳川の藩校「明徳館」内に英語学校の設立
4 「静降社」を設立し、清水港の改良、定期便(清川丸、静岡丸)の創設。
5 三保の松原に、塩田開発。
6 遠州相良に油田開発。
7 横浜からの船で出会った青年医師を、医師不足の清水で開業させる。
8 富士裾野に開墾事業。
9 清水港に料亭旅館「末廣」を開業。一大サロンに。(近年、当時のたたずまいのまま復元された)
10 東海道線開通事業に協力。
11 新門の辰五郎に頼まれ、前将軍慶喜の警護兼ねて『話し相手』に。





調べ上げると、以上のようなことが判明してきた。
これらは、難民化してしまった徳川将軍家家来2万人の衣食住を面倒見るばかりでなく、『職探し』まで苦心している。
(東日本大震災で被災した人たちには、衣食住ばかりでなく、仕事にありつかせるところまで、行政は見てやるべきだと思うが)

次郎長は、様々な開墾事業や塩田開発、油田開発は、徳川難民ばかりでなく、近所の刑務所につながれていた囚人たちの縄を解いで職業訓練をさせ、また、自分の子分大政小政をはじめ、もと任侠だった人間を共に開墾事業に就かせていた。
これらの次郎長の実業家として大事業のうち、特に7番目に挙げた『富士の裾野開墾』について述べたい。

これは、現在でも、「次郎長開墾」として知られている。
富士市大淵、次郎長町という地名まである。
次郎長が何故、ここを開墾地として定めたのか、今でも、分からないという。
一説には、「神道天照教」という新興宗教と関係があると言われている。
この宗教の教祖様は、意外にも、あの井伊直弼を襲撃した1人、徳田寛豊であった。日本国を平和で安らかな国にしたいという願いから、神教、仏教、儒教、キリスト教を統一して、老若男女の別なく、誰でもが参加できる教えを広めるというものであった。
場所は、富士宮の入会地6万坪に聖地として定め、そこに本殿を築いたというものだ。当時、信者の数は、10万人を超えていたという。そして、この辺りには、一つの街並みが完成していたという。

ここは、現在、桜の名所として知られているが、本殿のあった正面に4人による桜の植樹がされているという。1人は、西郷さんの弟で海軍大臣であった西郷従道。そして、高島嘉右衛門、清水次郎長、そして教祖の徳田寛豊である。
この場所に、日本の首都を遷都するという考えがあったという。それを首謀したのが、あの西郷隆盛であった。
西郷さんが、吉原宿の「たいや旅館」に宿した時、富士山の瑞気、天に沖する姿を見て、ここを日本の中枢地と定め、遷都の相談をしていたというものである。
その都市計画図が、今でも絵巻物として残されている。

僕は、先日、村瀬塾の仲間と横浜へウォーキングしたとき、「横浜に高島嘉右衛門が日本の夜明けを開幕し、それに次郎長も参加していた」ような気がしていた。
で、塾の阿部さんというメンバーに、嘉右衛門と次郎長の接点の調査を依頼していた。
彼は、精力的に調査をしてくれ、とうとう、横浜の図書館の職員からその証拠となるものを突き止めたのである。
それは、次郎長開墾に嘉右衛門も参加していたという証であった。
次郎長開墾は、それ自体は、次郎長が生きている間には、成功しなかった。富士のすそ野の開墾は想像以上に厳しいもので、一朝一夕には無理があったのである。
でも、この地は、その後、官と民が協力して、肥沃な土地に生まれ変わったとのことである。
それも、次郎長と嘉右衛門の開墾があったればこそのことである。

次郎長町の様子
 次郎長町の様子ーー平成


今の次郎長町のあたりの昔の地図を見てみると、驚くことに、次郎長開墾のすぐ右側に「高島開墾」があるではないか。

次郎長・高島開墾図
 次郎長・高島開墾図

これで、二人は、協力して開墾事業に携わっていたことが判明した。
では、一体、二人の最初の接点はどこにあったのであろうか。
それは、次郎長が『清水港――横浜港』の航路を開発するとき、自ら何べんも横浜に通って、すべての段取りから国への交渉など、嘉右衛門とひざを並べて相談していたからに他ならない。
かれは、清水で様々な事業を起こして茶をはじめとした物品を生産しても、それらを外国へ流通させなければ、事業になりえないことを理解していたから、どうしても航路を確立させることにまい進したのである。

当時、嘉右衛門は、横浜――函館ルートをすでに作り上げていたから、そうしたノウハウは体験していたのである。そこで、横浜での、二人の相談場所はいったいどこであったのか、知りたくなった。すると、意外な事実が発覚した。

高島嘉右衛門が、神奈川と横浜の海を埋め立てて、そこに鉄道を通したのは有名な話である。そして、その埋立地には、遊郭を誘致したのだった。
そして、その賑わいを、浮世絵師の歌川国松が浮世絵に残していたのである。
当時の繁盛ぶりと鉄道の近さがよくわかる。

高島町神風楼
高島町神風楼[1]


当時、最も人気のあった遊郭は、神風楼という店であったが、それは、三層楼の壮大なものであったという。それが、見事に、その浮世絵に描かれていた。
ここの楼主、山口粂蔵は、幕末には勤王の志士を庇護し、明治政府の高官たちは大概、この人に一度や二度は世話になっているほどの大変な大物であったが、次郎長親分も世話になっている。
粂蔵は、次郎長が横浜にやってくると、この神風楼を定宿にさせ、嘉右衛門とのつなぎ役を演じていたらしい。
また、次郎長が投獄されていた時分には、粂蔵自身が減免運動までして、早期の釈放を実現している。

神風楼の古写真
高島町・神風楼

なお、余談だが、箱根宮の下にある『箱根富士屋ホテル』は、粂蔵の養子仙之助が開業したものである。

つまり、次郎長と嘉右衛門との最初の接点は、なんと、この遊郭「神風楼」にあったのだ。二人は、ここで、新しい航路について相談し、また、富士裾野の開墾事業についても、検討を重ねていたのだった。

図らずも、ここの数か月、この二人と仲居屋十兵衛について密着してきた僕だが、まさか、こんな接点があったとは、全く知らないことであった。仲居屋十兵衛についても魅力的な人だが、この人は、横浜で文久2年までしか確認されていないので、次郎長との接触はあり得ない。だが、嘉右衛門とはつながりがあったに違いない。嘉右衛門は、安政5年以降には、すでに、横浜に進出しているからだ。

3回にわたって、次郎長について述べてきたが、まだまだ言いたいことはたくさんある。
言えなかったことは、次の機会に再び、登場していただく。




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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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