2005-06-05 Sun
3月16日に、このブログで京都見廻組、蒔田相模守とお孫さんのことについて書いた。
見廻組というと、新選組ファンのみならず、大方は、佐々木只三郎が首領だと思っているらしい。
実際直接の指揮を執っていたのは佐々木で間違いはないと思われるが、組織の上では備中の浅尾藩蒔田相模守が組頭であり、大名である。
佐々木は与頭であり、組頭の下である。
ついでながら、慶応三年6月に新選組は直参に取り立てられたが、このとき近藤勇は見廻組与頭格、土方はその下の肝煎格であった。
佐々木がトップであると間違えてしまうほど、京都見廻組についての資料が少ない。
だから、錯覚しても仕様がないし、また紹介しづらい。
文久年間に入って、安政大獄の反動で、京都では尊皇攘夷派(アンチ徳川)が猛威を奮い、特に文久二年の夏からは、天誅と称して連日のごとく幕府関係者が血祭りに上げられていた。
これは井伊直弼が起こした大獄と和宮降嫁に対する不満がその大きな理由だったが、どういうわけか、奉行所も京都所司代も下手人を逮捕できない状況にあった。
そこで幕府は、所司代の上に守護職を置いて厳重に取締りを行なう決意をしたのだが、紆余曲折の経過を経て、ようやく会津藩がその任に当たることになった。
守護職を大大名、所司代を中大名、そして見廻組を小大名というふうに幾重にも重ねて、見廻り、警戒に当たったのだが、実際のところ、最もよく機能し、働いたのは新選組だった。
前三者はれっきとした武士階級であるが、新選組だけが農民をはじめとした浪人グループである。その新選組だけが、どうしてそんなに働けたのか。
一言で言ってしまえば、前三者には上昇志向がなかったからである。その必要がないのである。
すでに武士であり、望むものがない。
むしろ騒然とした京都に赴任させられて、とんだ貧乏くじを引かされたという不満士族の集合体であったからだ。
京都見廻組は元治元年4月26日にスタートしたのだが、旗本の次男、三男で腕に覚えのある部屋住みの若者が選ばれたことになっている。
一時は400人いたといわれているのだが、とってもそうは思えない。人手がなくて困っていたのではないか。
その証拠に、新選組に隊士の引き抜きをお願いして、断られているからだ。
いくら腕に覚えがあっても、自ら危険な京都で、刺客を渡り合うなどという損なことをするはずがない。
幕末の頃は、身分制度も大分緩んできていたから、新選組に入って活躍すれば、金と身分が手に入るという希望が持てた。
だから、新選組は頑張った。
京都見廻組に入って、そのメンバーとなった者たちは、損な役回りをさせられていたのだった。
そんな中で、佐々木只三郎だけは違っていた。
彼の出自は、会津藩であった。
会津には、他の藩にはない、藩祖保科正之が定めた家訓(かきん)15条というものがあって、会津藩士たちにとって絶対的な法度であった。
『武備を怠るな』とか『婦女子の言うことは一切聞くな』『将軍のことは一心大切にしろ』などであるが、特に、徳川本家には絶対服従なのである。
江戸期を通じて、諸藩の藩士たちは、自分の藩主を飛び越して将軍に忠誠を誓うなぞという倫理はなかった。
会津だけの異常な、特殊な武士道感である。
武士の忠義とは、己の直接の藩主、主をのみを対象としているのであって、将軍に忠誠心をもてなぞという藩はどこにもない。
だが、会津藩は、所謂、二君に仕えることになっている。
若し、会津の藩主が将軍と違う意見を持ったときには、どちらに従うのか。
藩主を無視してもよいとなっていたのだ。
これは、藩祖の保科正之の出世経過によるものなのだが、紙面の都合上、別の機会に書くことにする。
佐々木只三郎は佐々木家の三男に生まれ、会津若松で育った。
長男の直右衛門(なおえもん)は、父の実家の手代木家を継いだ。
次男が当家を継いだので、只三郎は江戸へ出て旗本の佐々木矢太夫の養子になった。
こうした経緯が、只三郎の運命を決定付けた。
文久三年4月、清河八郎を葬ったのは周知のことだが、慶応三年11月には坂本龍馬まで惨殺した。
彼がもし、根っからの旗本の子弟であれば、あれ程の冷徹な殺戮は行なわなかったのではないかと思う。
会津で教育を受けたものが、徳川本家に直参として入ってしまったことで、徳川御家のために身命を賭すことに何のためらいもないのであり、彼が根っからの旗本連中と違った感性を持ち合わせてしまったということになる。
ついでながら、坂本龍馬暗殺にかかわったのは、見廻組になってはいるが、実は明治三年、旧幕臣今井信郎が供述したところによれば、メンバー以外の寄せ集めも参加していたことが判明している。見廻組には新選組のような機動性がない。
組織としてのまとまり、一貫性に欠けてしまっているところがあった。
佐々木には、坂本を葬るに当たって、腕の立つ連中を集めなければならなかった事情があった(この中に、斎藤一が交じっていても不思議はない)。
坂本龍馬は大政奉還を進言し、平和的な政権交代を望み、着々と準備していたが、幕府の雇った佐々木をはじめとした刺客団に殺されてしまった。
若し、殺さなければ、あのような鳥羽伏見戦争は起こらずに済んだに違いない。
すれば、その戦争で、佐々木只三郎も命を落とさずにすんだはずであるが。
見廻組というと、新選組ファンのみならず、大方は、佐々木只三郎が首領だと思っているらしい。
実際直接の指揮を執っていたのは佐々木で間違いはないと思われるが、組織の上では備中の浅尾藩蒔田相模守が組頭であり、大名である。
佐々木は与頭であり、組頭の下である。
ついでながら、慶応三年6月に新選組は直参に取り立てられたが、このとき近藤勇は見廻組与頭格、土方はその下の肝煎格であった。
佐々木がトップであると間違えてしまうほど、京都見廻組についての資料が少ない。
だから、錯覚しても仕様がないし、また紹介しづらい。
文久年間に入って、安政大獄の反動で、京都では尊皇攘夷派(アンチ徳川)が猛威を奮い、特に文久二年の夏からは、天誅と称して連日のごとく幕府関係者が血祭りに上げられていた。
これは井伊直弼が起こした大獄と和宮降嫁に対する不満がその大きな理由だったが、どういうわけか、奉行所も京都所司代も下手人を逮捕できない状況にあった。
そこで幕府は、所司代の上に守護職を置いて厳重に取締りを行なう決意をしたのだが、紆余曲折の経過を経て、ようやく会津藩がその任に当たることになった。
守護職を大大名、所司代を中大名、そして見廻組を小大名というふうに幾重にも重ねて、見廻り、警戒に当たったのだが、実際のところ、最もよく機能し、働いたのは新選組だった。
前三者はれっきとした武士階級であるが、新選組だけが農民をはじめとした浪人グループである。その新選組だけが、どうしてそんなに働けたのか。
一言で言ってしまえば、前三者には上昇志向がなかったからである。その必要がないのである。
すでに武士であり、望むものがない。
むしろ騒然とした京都に赴任させられて、とんだ貧乏くじを引かされたという不満士族の集合体であったからだ。
京都見廻組は元治元年4月26日にスタートしたのだが、旗本の次男、三男で腕に覚えのある部屋住みの若者が選ばれたことになっている。
一時は400人いたといわれているのだが、とってもそうは思えない。人手がなくて困っていたのではないか。
その証拠に、新選組に隊士の引き抜きをお願いして、断られているからだ。
いくら腕に覚えがあっても、自ら危険な京都で、刺客を渡り合うなどという損なことをするはずがない。
幕末の頃は、身分制度も大分緩んできていたから、新選組に入って活躍すれば、金と身分が手に入るという希望が持てた。
だから、新選組は頑張った。
京都見廻組に入って、そのメンバーとなった者たちは、損な役回りをさせられていたのだった。
そんな中で、佐々木只三郎だけは違っていた。
彼の出自は、会津藩であった。
会津には、他の藩にはない、藩祖保科正之が定めた家訓(かきん)15条というものがあって、会津藩士たちにとって絶対的な法度であった。
『武備を怠るな』とか『婦女子の言うことは一切聞くな』『将軍のことは一心大切にしろ』などであるが、特に、徳川本家には絶対服従なのである。
江戸期を通じて、諸藩の藩士たちは、自分の藩主を飛び越して将軍に忠誠を誓うなぞという倫理はなかった。
会津だけの異常な、特殊な武士道感である。
武士の忠義とは、己の直接の藩主、主をのみを対象としているのであって、将軍に忠誠心をもてなぞという藩はどこにもない。
だが、会津藩は、所謂、二君に仕えることになっている。
若し、会津の藩主が将軍と違う意見を持ったときには、どちらに従うのか。
藩主を無視してもよいとなっていたのだ。
これは、藩祖の保科正之の出世経過によるものなのだが、紙面の都合上、別の機会に書くことにする。
佐々木只三郎は佐々木家の三男に生まれ、会津若松で育った。
長男の直右衛門(なおえもん)は、父の実家の手代木家を継いだ。
次男が当家を継いだので、只三郎は江戸へ出て旗本の佐々木矢太夫の養子になった。
こうした経緯が、只三郎の運命を決定付けた。
文久三年4月、清河八郎を葬ったのは周知のことだが、慶応三年11月には坂本龍馬まで惨殺した。
彼がもし、根っからの旗本の子弟であれば、あれ程の冷徹な殺戮は行なわなかったのではないかと思う。
会津で教育を受けたものが、徳川本家に直参として入ってしまったことで、徳川御家のために身命を賭すことに何のためらいもないのであり、彼が根っからの旗本連中と違った感性を持ち合わせてしまったということになる。
ついでながら、坂本龍馬暗殺にかかわったのは、見廻組になってはいるが、実は明治三年、旧幕臣今井信郎が供述したところによれば、メンバー以外の寄せ集めも参加していたことが判明している。見廻組には新選組のような機動性がない。
組織としてのまとまり、一貫性に欠けてしまっているところがあった。
佐々木には、坂本を葬るに当たって、腕の立つ連中を集めなければならなかった事情があった(この中に、斎藤一が交じっていても不思議はない)。
坂本龍馬は大政奉還を進言し、平和的な政権交代を望み、着々と準備していたが、幕府の雇った佐々木をはじめとした刺客団に殺されてしまった。
若し、殺さなければ、あのような鳥羽伏見戦争は起こらずに済んだに違いない。
すれば、その戦争で、佐々木只三郎も命を落とさずにすんだはずであるが。






