村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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京都見廻組と佐々木只三郎

3月16日に、このブログで京都見廻組、蒔田相模守とお孫さんのことについて書いた。
見廻組というと、新選組ファンのみならず、大方は、佐々木只三郎が首領だと思っているらしい。
実際直接の指揮を執っていたのは佐々木で間違いはないと思われるが、組織の上では備中の浅尾藩蒔田相模守が組頭であり、大名である。
佐々木は与頭であり、組頭の下である。
ついでながら、慶応三年6月に新選組は直参に取り立てられたが、このとき近藤勇は見廻組与頭格、土方はその下の肝煎格であった。
佐々木がトップであると間違えてしまうほど、京都見廻組についての資料が少ない。
だから、錯覚しても仕様がないし、また紹介しづらい。

文久年間に入って、安政大獄の反動で、京都では尊皇攘夷派(アンチ徳川)が猛威を奮い、特に文久二年の夏からは、天誅と称して連日のごとく幕府関係者が血祭りに上げられていた。
これは井伊直弼が起こした大獄と和宮降嫁に対する不満がその大きな理由だったが、どういうわけか、奉行所も京都所司代も下手人を逮捕できない状況にあった。
そこで幕府は、所司代の上に守護職を置いて厳重に取締りを行なう決意をしたのだが、紆余曲折の経過を経て、ようやく会津藩がその任に当たることになった。
守護職を大大名、所司代を中大名、そして見廻組を小大名というふうに幾重にも重ねて、見廻り、警戒に当たったのだが、実際のところ、最もよく機能し、働いたのは新選組だった。
前三者はれっきとした武士階級であるが、新選組だけが農民をはじめとした浪人グループである。その新選組だけが、どうしてそんなに働けたのか。
一言で言ってしまえば、前三者には上昇志向がなかったからである。その必要がないのである。
すでに武士であり、望むものがない。
むしろ騒然とした京都に赴任させられて、とんだ貧乏くじを引かされたという不満士族の集合体であったからだ。

京都見廻組は元治元年4月26日にスタートしたのだが、旗本の次男、三男で腕に覚えのある部屋住みの若者が選ばれたことになっている。
一時は400人いたといわれているのだが、とってもそうは思えない。人手がなくて困っていたのではないか。
その証拠に、新選組に隊士の引き抜きをお願いして、断られているからだ。
いくら腕に覚えがあっても、自ら危険な京都で、刺客を渡り合うなどという損なことをするはずがない。
幕末の頃は、身分制度も大分緩んできていたから、新選組に入って活躍すれば、金と身分が手に入るという希望が持てた。
だから、新選組は頑張った。

京都見廻組に入って、そのメンバーとなった者たちは、損な役回りをさせられていたのだった。
そんな中で、佐々木只三郎だけは違っていた。
彼の出自は、会津藩であった。
会津には、他の藩にはない、藩祖保科正之が定めた家訓(かきん)15条というものがあって、会津藩士たちにとって絶対的な法度であった。
『武備を怠るな』とか『婦女子の言うことは一切聞くな』『将軍のことは一心大切にしろ』などであるが、特に、徳川本家には絶対服従なのである。
江戸期を通じて、諸藩の藩士たちは、自分の藩主を飛び越して将軍に忠誠を誓うなぞという倫理はなかった。
会津だけの異常な、特殊な武士道感である。
武士の忠義とは、己の直接の藩主、主をのみを対象としているのであって、将軍に忠誠心をもてなぞという藩はどこにもない。
だが、会津藩は、所謂、二君に仕えることになっている。
若し、会津の藩主が将軍と違う意見を持ったときには、どちらに従うのか。
藩主を無視してもよいとなっていたのだ。
これは、藩祖の保科正之の出世経過によるものなのだが、紙面の都合上、別の機会に書くことにする。

佐々木只三郎は佐々木家の三男に生まれ、会津若松で育った。
長男の直右衛門(なおえもん)は、父の実家の手代木家を継いだ。
次男が当家を継いだので、只三郎は江戸へ出て旗本の佐々木矢太夫の養子になった。
こうした経緯が、只三郎の運命を決定付けた。
文久三年4月、清河八郎を葬ったのは周知のことだが、慶応三年11月には坂本龍馬まで惨殺した。
彼がもし、根っからの旗本の子弟であれば、あれ程の冷徹な殺戮は行なわなかったのではないかと思う。
会津で教育を受けたものが、徳川本家に直参として入ってしまったことで、徳川御家のために身命を賭すことに何のためらいもないのであり、彼が根っからの旗本連中と違った感性を持ち合わせてしまったということになる。

ついでながら、坂本龍馬暗殺にかかわったのは、見廻組になってはいるが、実は明治三年、旧幕臣今井信郎が供述したところによれば、メンバー以外の寄せ集めも参加していたことが判明している。見廻組には新選組のような機動性がない。
組織としてのまとまり、一貫性に欠けてしまっているところがあった。
佐々木には、坂本を葬るに当たって、腕の立つ連中を集めなければならなかった事情があった(この中に、斎藤一が交じっていても不思議はない)。

坂本龍馬は大政奉還を進言し、平和的な政権交代を望み、着々と準備していたが、幕府の雇った佐々木をはじめとした刺客団に殺されてしまった。
若し、殺さなければ、あのような鳥羽伏見戦争は起こらずに済んだに違いない。
すれば、その戦争で、佐々木只三郎も命を落とさずにすんだはずであるが。
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コメント
牧原文吾
牧原文吾、別名が松井九郎で10石3人扶ち 34歳で戸ノ口
原で明治元年8月23日に戦死したと殉難者名鑑に記されて
おりますが?
2008/07/10(木) 23:49 | URL | 伊藤哲也 #K5H6lFAY[ コメントの編集]
私の先祖も見回り組に?
私の先祖も会津藩士で、一族8名が戦死しています。その中で
「二男の牧原文吾が、松井九郎と改名して、旗本とし見回り組にはいり、後、大鳥圭介に従って函館戦争に加わり、行くへ不明になった」と伝え聞いています。見回り組の名簿があれば、見てみたいものです。牧原か「松井九郎」の名はありますでしょうか?
2008/06/24(火) 10:27 | URL | 牧原伸一郎 #Tt6TPY.g[ コメントの編集]
只三郎たちなのですけれどもね
龍馬を暗殺したのは只三郎たちであったことは言うまでもないと
思います。なかには、龍馬目的でなく中岡暗殺が目的だと論じる
人もおられますが。
手代木家の子孫の方は、私の知り合いの方ではないですか?
なお、見廻組の名簿は一つではありません。私や管理人さん
だと行くのに不便な所です。双方の共通点を考慮してみてください。
2008/02/24(日) 00:56 | URL | 伊藤哲也 #K5H6lFAY[ コメントの編集]
始めまして、たまたま目にとまりました。
私の先祖は手代木直右衛門(すぐえもん)の末弟「手代木六右衛門」です。とはいえそれほど資料らしい資料は残っていません。
2007/05/16(水) 17:54 | URL | 手代木 #-[ コメントの編集]
あさくらゆうさん、ブログでは初めてですね
ゆうさんのお噂は、常に僕のところにはいってきていますので、ほとんど情報が入っていると思われます。
足の怪我はいかがですか。
大分よくなったとは聞いておりますが。

ところで、見廻組の名簿があるんですか。
見たいですね。
只、どうなんでしょう。
あの人たちも、京都に約3年半いましたが、大分入れ替わりがあったでしょうね。
いつの時点のものでしょう。
それにしても、拝見したい。

7月3日のイベントは、僕も行くつもりですので、是非よろしくお願いします。
2005/06/18(土) 18:24 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
見廻組名簿
 実は「見廻組名簿」というのが存在します。こんど7月3日(日)に催される「柳町薬王寺ギャラリー」でコピーを閲覧展示、および、入場者に限り限定販売する予定です。
 この名簿には各隊士の身分、役職、石高、住居地、年齢が記されている貴重なものです。
 機会がありましたらよろしくお願いいたします。
2005/06/18(土) 14:51 | URL | あさくらゆう #Azz1qEqw[ コメントの編集]
はじめまして
時々のぞかせていただいています。
黒鉄さんのマンガは読んでいないのですが、先日古い「歴史と旅」を読んでいて話題にありました手代木直右衛門の語り残した言葉を会津史談会の星野正介さんとおっしゃる方は「殿(容保)の命令」と紹介しておられます。
わたしは伊東甲子太郎の死も、当時の諜報戦が噛んでいるような気もします。ま、推測ですけどね。
2005/06/17(金) 00:16 | URL | 水魚 #-[ コメントの編集]
ピンポーン!
直右衛門が、主君のことだから死の直前まで憚っていたのだろうと書かれてありました。
実行部隊は見廻組オンリーとして描かれていましたけれども。
2005/06/09(木) 09:38 | URL | 青空百景 #IP/sRWwE[ コメントの編集]
諸説あって、難しいですね。
あなたの文の中に、
『直右衛門が死ぬ前に、これは「某諸侯の命による」と言い残したとのことですが、その某諸侯とは……』
と、ありました。

わたしは、某諸侯とは、松平容保以外にはないと確信しているんですよ。
容保は、龍馬に恨みを持っていた紀州藩の三浦休太郎から頼まれていたのではないでしょうか。
それに、大政奉還を進言した張本人でもあるから、容保としても面白くなかったのでは。
動機は十分です。

僕の本では、会津の間者の斎藤一が容保の指令を受けて斬ったと、土方歳三が思い込んでいることにしてあります。
只、中岡も同時に斬られていますから、実行犯は複数でしょうね。いくら斎藤が左利きだといっても、同時に二人は斬れないだろうと思います。坂本も中岡も剣豪ですから。
それも気を許せる人間。
でも、見廻組の中に坂本や中岡が油断できる人間がいたのかどうか。

斎藤が実行犯。
それがゆえに、翌12月7日に起こった天満屋事件には、斎藤が三浦をガードしていた。
海援隊や陸援隊のリベンジがあると予測して、斎藤以下が用心棒していたのでは。

西郷の指令を受けた薩摩が犯人などという人がいるのですが、『ありえない』と思っています。
僕が西郷好きということもあるのですが、西郷をよく知れば、そういうこと(坂本を殺すこと)なぞ、絶対ないと確信してしまうのです。
理由?
西郷さんは戦争嫌いで、愛情深い人だからなんです。それに、坂本とおりょうさんの仲人でもありますし……。

私の勝手な推測、解釈なのですがーーー。
2005/06/08(水) 23:52 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
坂本龍馬暗殺について
時期からいって、大政奉還に怒る余りの行為だとばかり思っていましたが(確か司馬遼太郎さんの『龍馬がゆく』でもそういう描き方だったような……)、寺田屋事件の際に捕り方に発砲したお尋ね者として、公務として見廻組に討取り指令が出たのだ、とありました。
事件後1年半も経ってからいきなりそんな指示が出るには何かあったのでは……直右衛門が死ぬ前に、これは「某諸侯の命による」と言い残したとのことですが、その某諸侯とは……
というのを書いていくとキリがなくなるので、是非是非お読み下さいませ! 面白い作品ですよ。
タイトルは見廻組ですが、新選組のこともだいぶ出てきます。
2005/06/08(水) 21:56 | URL | 青空百景 #IP/sRWwE[ コメントの編集]
黒鉄ヒロシのマンガ、知りませんでした
早速、そのマンガ読んでみます。
ウロコガ落ちたのは、どういうところでですか。
何か勉強になることがあれば、知りたいのです。
よろしくお願いします。
2005/06/06(月) 19:35 | URL | 村瀬彰吾 #VvKxtd/k[ コメントの編集]
はじめまして
前から読ませて頂いていましたが、初書き込みです。
黒鉄ヒロシ氏のマンガ『京都見廻組』が、佐々木只三郎の会津人としての部分に焦点を当てた作品で、読んだ時には「あっ!」と目からウロコが落ちた思いでした。
佐々木の実兄・手代木直右衛門のことも知っていたのに、なぜか、佐々木只三郎といえば旗本、で頭が止まっていたんですよね。
2005/06/06(月) 11:46 | URL | 青空百景 #IP/sRWwE[ コメントの編集]
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龍馬暗殺について~歴史学者(幕末政治史研究者)の意見を参照することのすすめ~

慶応3(1867)年、11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたことは有名で
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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