村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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『全英女子オープンゴルフ』を見ていたら、近藤勇、明治維新と発展してしまった

7月28日から4日間、毎日深夜、テレビに釘付けだった。
『全英女子オープンゴルフ』の中継が行われていたからだ。
日本からは不動裕理、宮里藍、東尾理子、俵(おもて)純子、服部道子などが出場し、宮里が7アンダーで11位タイ、不動が6アンダーで15位タイの成績だった。
よく頑張ったし、何より予選を通過して最後まで楽しませてくれたことに感謝したい。

だが、なんだか最近、一抹の寂しさを感じる。
一口に言って、日本の選手たちのレベルが低いのだ。
だって、優勝したのは韓国のジオン・ジャン(張晶)という25歳の選手で、身長だって決して高くはない方だし(160センチはないと思われる)、特別何に優れているという印象があるわけでもなく、普通に日本にいる女性となんら変わるところがないような人だった。
日本の賞金女王、不動裕理をちょっとだけ肉付きをよくした感じの人で、プレイ振りもとにかく正確で、不動によく似ていた。
その彼女が、いまや世界の女子ゴルフ界で押しも押されぬあの大女王、アニカ・ソレンサムをぶっちぎりで破ってメジャーのトロフィーを手にしたのだから、驚く以外何者でもない。

近年、韓国女性の活躍は目覚しく、世界の女子ゴルフ界では最も輝いているといってよいのではないか。
全米女子オープンや全米女子プロなど、メジャーといわれている試合で、優勝するケースが出現してきている。
今回だって、優勝したジオン・ジャンのほか、金英が4位だし、ほかにも何人か上位に顔を出していた。

日本はというと、僕の記憶では、樋口久子が全米女子プロで優勝したのがいつだったか、もう30年ぐらい前のことのように思うのだが、それ以降岡本綾子をはじめとして何人もの選手が海を渡ってチャレンジしてきているが、まったく歯が立っていない。
これまでは、場所が海外だからとか、コースが難しいとか芝が違うとか言い訳じみたことをマスコミをはじめ繰り返してきたが、韓国選手の大活躍で、そんな理屈にもならない理由はどこかへすっ飛んでしまっている。

僕は、近藤勇流に言って、『気組』だと思っている。別な言い方すれば、『ハングリー精神の欠如』かもしれない。
これは、相撲にも言えることで、朝青龍にまったく歯が立たないことに通じると思えるが。

男子にいたっては、丸山秀樹をはじめ毎年多くの選手がメジャー(マスターズをはじめ、全米オープン、全米プロ、全英オープンなど)にチャレンジしているが、青木功が全米オープンで二クラウスの2位に入ったのが最高で、その後はベスト3にさえ入れない。

その割りに、ゴルフは日本では結構人気スポーツで、ゴルフ場の数の多さでは、国土の広さからすれば群を抜いているはずだ。
飛行機に乗ったときに、空から国土を上から見てみればよくわかる。
何でこんなにも山を崩してゴルフ場を作る必要があるんだと、多くの人が思うに違いない。
辞典で調べてみたら、合計2400程度あるらしい(本当?ミニコースも含めてか)。
僕は東京住まいだから、羽田から乗ると千葉県のゴルフ場の多さに驚く。

長々とゴルフの話題を書いてしまったが、それが目的ではない。
日本と韓国と中国のことだ。
近年、バレーボールにしても体操にしても柔道でも、そもそも日本がお家芸としてきたスポーツが、韓国や中国の選手に遅れをとってしまっている。
その日本が、今から7、80年前に彼らの国を侵略して属国化した。この15日には、靖国参拝で一騒ぎ、またあるだろう。
日本が国連の常任理事国になりたいといって、盛んに運動しているらしいが、中国などは猛反対だ。

僕が何を書きたいか、敢えて言わない。
言わなくても、なんとなくわかってもらえそうな気がするからだ。

今から140年位前、元治元年(1864年)9月10日近藤勇は、京都から4日間という超人的なスケジュールで江戸に戻ってきて、松本良順邸を訪れている。
自身の攘夷思想に迷いが生じて、当時、西洋の事情に最も明るいと評判だった、和蘭医学を修めた奥医師松本を訪ねたのだ。
近藤は、その日から攘夷を捨てたといわれる。
いや、僕が勝手にそう思っている。
「攘夷などしていりゃ、日本は救われねえ。鎖国など続けていりゃあ、治る病もなおせねえ」とりあえず開国しかないのだと、良順に諭された。
その開国は、安政5年6月19日に『通商条約』として徳川が行ったものだ。
天皇を無視して条約を結んでしまったものだから、方法としてはまずかったが、近藤にとっては、そんなことはどうでもいい。
近藤にとって、自分たち(新選組)が存立してゆく基盤、基本的なテーゼ(定立、主義、主張)さえ見つかればよかったのだ。
だが、それはとうとう死ぬまで分からず仕舞いだった。
良順の当時の自伝では、近藤は『氷釈』といっていたそうだが、本当に氷解していたのかはよくわからない。

同じ日、大阪では重要な会談が行われていた。
あの西郷隆盛と勝海舟が初めて顔を合わして、談議していたのだ。
結果、相手の人間の大きさに、双方が驚愕してしまった。
そして、彼らに真の友情が芽生えてしまった。
このことが、後の維新、戊辰の役に発展してゆくことになった。
慶応4年3月13日と14日に行われた三田付近の薩摩屋敷で行われた例の会談と、それに続く4月9日の無血開城である。

西郷は、勝と初めて会って、清国と朝鮮と日本が協力して西欧列強と戦うべきだと教わった。だから、徳川だ島津だ毛利だと国内で争っているときでないと。
西郷は、それで新たに目が醒めたと思いたい(最初は、自身が最も尊敬していたお殿様、島津斉彬であったことは疑えない)。
明治になって、様々な障害がある中で西郷は、廃藩置県から版籍奉還、徴兵令から廃刀令などさまざまな諸策を行った。
迷いはなかった。
坂本さん(龍馬)からも、しょっちゅう聞かされていた。
「アメリカの大統領は下女の生計が成り立つために政治を考えるちゅうが、日本の将軍は徳川の繁栄しか考えていない。だから、倒すんです」と。
西郷も、自己や武士、封建制、そして藩を捨てて『国』という概念に行き着いていた。
もともと、勝から教わったものだ。

明治になって、薩摩藩が政治の中心になりうると確信していた島津久光に、徹底して嫌われた。西郷に裏切られたと。

全英オープンゴルフを見ていたら、余計なことを考えてしまった。
気がついたら、東の空が明るくなっていた。
あ~あ、今日もまた寝不足だ。
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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