村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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「桜田門外の変」を思い出すような大雪だ

3月4日 今日は、「桜田門外の変」を思い出すような大雪だ

 早朝からの降雪で、日野は大雪である。
今日は3月4日だが、万延元年3月3日におきた桜田門外の変を思い出す。あの事件が契機になって、維新へと一直線に向かうこととなった。
土方歳三はあの時分、何処にいたのか。万延元年は安政7年に当たるが、歳三はかぞえで26歳になっているはずだ。この頃は既に牛込柳町の試衛館道場に食客として転がり込んでいたはずである。
井伊大老が暗殺されたのは、今の時刻で言えば午前9時ごろであろう。その一報が柳町界隈に届くのは昼ごろであろうか。土方歳三は、聞くないなや、桜田門に足を向けたと思われる。凄惨な現場を目にして、これからやってくるであろう時代の変革を、肌で感じ取ったに違いない。そして歌を詠んだ。
婦り奈可良  き由る雪あり  上巳古楚
(ふりながら きゆるゆきあり じょうしこそ)
このうたは、豊玉発句集41作の後ろから10番目あたりに載っているものだが、あまりうまい方とはいえない歳三の俳句の中でも、出色の出来栄えだと思う。
この俳句の意味だが、「きゆるゆき」とは殺された井伊直弼のことであるのは間違いないところだが、それを悲しみ惜しんだのか、当然殺されるべきと思ったのか、意見の分かれるところである。私は後者をとりたい。
徳川の大老といえば最高権力者で、いまの総理大臣以上の権力を振るっていた。その人の首が真昼間に飛んだのだから、天地のひっくり返るほどの事件だったのだが、この当時の歳三は剣術修行を只管近藤のもとでおこなっていた時期である。未だ、徳川に恩義があるわけでもなく、徐々に攘夷の思想に入り込んでいった時期であろうと思われる。
万延元年の頃は、前年に交わされたアメリカとの通商条約で未曾有の物価高に庶民は苦しんでいたのと、コレラの蔓延で江戸でも死人が連日道端にあふれたときなので、徳川の政治に批判的な町衆が多かった。貧乏道場の試衛館も、その経営が苦しく、米や味噌の調達にも苦心していた時期であったろう。
その原因を作ったのが、外国人であり、勅許なしで条約を結んでしまった井伊大老であったのだから、江戸の庶民らは悲しむようなことはなかったと考えるべきである。むしろ、吉良邸討ち入りのときのような一種、「あっぱれ」的な賞賛さえあったと私は思う。弱いものいじめをする権力にたして、制裁を加える小気味よさを、当時の江戸の人たちは評価していたのである。
歳三も、この頃はそうしたうちの1人であったに違いない。
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村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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