村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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中桂小五郎の逃避地〝但馬出石(いずし)〟

中桂小五郎の逃避地〝但馬出石(いずし)〟は、しっとり落ち着いた美しい街並みだった

出石の街
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昨年8月の手術後、初めて遠くへ出かけてみた。
術後3か月は、激しい痛みでそれどころではなかったが、今はもう大丈夫。
一度は行ってみたかった出石や姫路城、この二つが含まれているツアーがあったので、というより、僕の奥さんが新聞で見つけてくれたので、素直に申し込んだ。
このツアー、岡山空港まで行って倉敷、鳥取砂丘、出石、神戸、姫路城というルートをバスで走るものだった。
ただ、キャッチフレーズはタグ付きのカニを食べるという呼び込みだった。
僕は、カニが大好きなので、こちらのほうも魅力で興味がわいた。

冒頭の写真は、豊岡市出石の街なかである。天気も良かったせいか、実に静寂な味わいのある界隈であった。
ここは、桂小五郎が禁門の変ののち、命からがら京都を出て、約1年近く潜伏していたので、記憶にあった。
一度、尋ねてみたかったところだ。
それと、大石内蔵助の妻りくが、まだ山科にいる頃、突然内蔵助から離縁を言い渡されて、生まれ故郷に力(ちから)以外の子らを連れて帰っていくシーンがあったが、その故郷がここ豊岡であった。

桂の店のあった記念碑など
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『死を恐れない』若者たち


桂小五郎は、出石で商人に変装し、荒物屋を営んでいたという。
その横に当時から蕎麦屋があったらしいが、今でも立派に営業していた。
よく、桂は『逃げの小五郎』と言われて揶揄されているが、それは、司馬遼太郎の小説のイメージから来ているものかもしれない。司馬さんの小説はストーリーが魅力的で史実もきちんとしているし勉強になるが、創作も多いので少しは気を付けないと。

すぐ思い出すのは、井上源三郎である。
小説や映画では、剣術の下手なよき好々爺のように描かれているが、源三郎はまだ30代であるし、井上の子孫はそれを認めてはいない。
天然理心流の免許が見つかっていなかったからであったが、司馬さんが亡くなってから、井上家と姻戚関係にある近所の安西家で免許状が見つかった。だから、源さんは『強かった』というのだ。
でも、司馬さんの小説は、書き直せない。井上本家は、源三郎の強さを力説する。

実際、桂はどういう人だったのか、興味はある。

神道無念流練兵館の塾頭に若くしてなり、免許皆伝まで精進したというから、竜馬の北辰一刀流と並んで大変な上達ぶりである。
武田鉄矢の「お~い竜馬」では、この二人が土佐の山内容堂の御前試合で手合せし、竜馬が勝ったことになっていた。
僕の長男が幼いころ、一緒にアニメを見ていたのを覚えている。

確かに同じころ、江戸で二人は剣術の修業をしていたのだから、可能性はある。
作り話だとしても、夢がある。
竜馬にしても小五郎にしても、相当な剣の腕前がありながら、実際、刀を抜いたという話は一度も聞いたことがない。
二人とも、目先の小さな争い事には関心を示さず、もっと大きい変革に命を捧げようとしていたに違いない。
まあ、逃げ回っていたことには違いないが。
竜馬の場合、その逃げ方が半端だったから、殺られてしまった。逃げることに、どこか、躊躇があった。周囲の忠告も、半分は無視をしていた。それに、土佐藩も竜馬を匿おうという積極性に欠けていたし。

あの時代、志士と自負していた若者たちは、「潔さ(いさぎよさ)」も大事にしていた。だから、死を恐れないという任侠的なところも少しはあった。

桂が、池田屋事変の後、憎き新撰組に復讐しようと思えば、壬生の屯所を襲って一瞬のうちに成敗することは可能であっただろう。何せ、このころの新撰組ときたら脱走や病人が多くて50人にも満たない。
確かに、長州藩の中には、そういう輩もいたと聞く。
だが桂は、新撰組を襲って世の中が変わるわけではない。われらの目的は徳川なのだ。もっと大きく、世の中を見渡さないといけないと考えた。

池田屋で変事があって翌月の19日には、長州は京都を三方から攻め上がっている。これにも桂は消極的で、姿を消している。
久坂玄瑞などは血の気が多いからか、ここで命を落としてしまっている。生きていれば、相当の活躍が望めたものを。
もったいない話だが、幕末には、若くして命を落としてしまった有能な志士が何人もいた。
それが当時、『死を恐れない』という一つの若者の生きざまであり、形であったからであろう。
原田佐之助はいきがって、まだ10代のころ、自分の腹を刺したという。

早まったことをしてしまった下級武士が多い中、桂小五郎は、生きて生きて生き抜いた。
幕府の追手から逃げなければならないから、ずいぶんと変装もしたが、乞食にまでなって、愛妾の幾松に握り飯を運ばせたという逸話まで残っている。
でも、こういうタイプの英雄はよく言われないし、小説家も良い印象を持たないらしい。
とにかく、日本国では、最後まで戦い抜くほうが人気が高いのである。
真田親子は、父昌幸の功績は息子の幸村などより大きいが、人気は断然幸村である。
最後まで豊臣に殉じて戦って死んだからかもしれないが、父の昌幸だって、戦うことに関しては、幸村なぞに負けてはいない。
稀有の戦国武将である。
真田丸だって、実は、父からの受け売りだし、それ以前からああした戦法は戦略としてあった。
でも、人気は幸村なのである。日本の歴史とは、そのように作られてきている。

西郷や大久保は、剣は苦手だったに違いないが、勝海舟は男谷道場で免許皆伝だったという。
が、抜いたことはなかった。
京都で、勝の身辺を心配した竜馬が、用心棒に岡田以蔵をつけて警護させたら、案の定刺客に襲われた。その時、以蔵がいとも簡単に人を斬ったので、勝が注意したという話が残っている。
これは、勝自身がのちに語っていることなので史実だろうが、剣の達人とは其の奥義に、いかにして『抜かないで勝つか』というものがあるのかもしれない。


鳥取の砂丘は寒く、前日の雪が残っていた


空の碧さと海の青さ、砂丘の砂の色と雪の白さがコントラストとなって、独特の美しさを現していた。

砂丘
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このたびの旅行、タイミングが中国の春節に重なったせいか、どこへ行っても日本人より多かった。ここまで、金を落としてくれると、地方の活性化にも役立つだろうから、一概に非難ばかりしてはいられない。
最近では、東京や京都、富士山ばかりでなく、地方都市や中小の観光名所が人気があるという。
確かに、鳥取の砂丘でも、中国語が飛び交っていた。
中国は広いから、雪などは、日本と同じように降るだろうし、珍しくはないと思っていたが、実際はだいぶ違うらしい。
我が国に降る雪は、サラサラで、パウダーのようなのだ。アジアの多くの人々ばかりでなく、オーストラリアのスキーヤーまでもが、北海道のニセコの雪質にあこがれを感じるらしい。

修復を終えた姫路城だが、白すぎた天守閣は今ちょうどよいほどに落ち着いている

出石の街中を歩いているとき、これは、中国じゃなくてベトナムあたりの団体の観光客らしいが、そのしっとりとした美しさに感動したのだろう、歓声を上げている。
西洋人もいたのだが、彼ら彼女たちに共通しているのは、皆さん感動を大声とジェスチャーで表現することだ。そこへ行くと、日本人たちは、総じておとなしい。何かが、逆転している。
こっちのほうが外人みたいだ。
あの人たちに、こういう雰囲気がわかるのかと疑いたくなるのだが、最近は、日本的なものがよいらしい。

そういえば、姫路城の天守閣の急な階段を上って4階あたりだったか、チャイナの5歳ほどの男の子が、ほとんど忍者になりきって一人で演技をしていたっけ。
本人は得意になって、国宝のあの分厚い板の床を寝転んでいる。
ドラゴンボールZのスーパーサイヤ人なのだ。
母親も、ニコニコ顔でわが子を眺めている。多分、日頃から、本国でも日本の忍者にあこがれていたに違いない。
晴れて、夢がかなったのだった。
我が国の子供たちはそうしない。
おとなしく見学する子が、よい子なのである。

天下一の美しさ、白鷺城


姫路城
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このお城、超有名だから、幼いころからその名はよく知っていたが、誰の城だったっけ?
僕が知る限りでは、黒田官兵衛が秀吉にプレゼントしたことと、その後、秀長が城主になり、大坂夏の陣で秀頼が死んだあとは、あの千姫が一時住んでいたというくらいなのだが。
そのほか、池田輝政が関ヶ原の戦のあとは、その功績で住んでいたような。
でも、なんで、これほど大きくて立派で美しいのだろうかと感動ものである。
同じ国宝でも、松本城や彦根城などと比べても、桁違いである。
熊本城も石垣は立派だが、城そのものは昭和になって再建されたもので、魅力はない。

姫路城は、今、その白さも落ち着いて、ちょうど見ごろである。
皆さんにも一度は行く価値のある逸物であるから、お勧めする。

ご無沙汰でした。再び、始めます。


久しぶりのブログである。
こんなにも、間が開いてしまったのは、理由がある。
「肺」の手術をしたからである。

昨年の7月3日、突然左の肺に痛みが走った。
僕は、ここでも以前から書いてきたが、『間質性肺炎』という病気を持っている。
これがそうさせたのかと観念したのだが、近所の医者にその日のうちにかかったら、違うようである。

自然気胸?

その医者は、レントゲンを見てびっくり仰天、「すぐ、救急車だ」と看護師に命じて、立川の災害医療センターという国立の病院に運ばれた。
『自然気胸』という症状だった。

これは病気ではなく、一つの症状だという。
一口で言えば、肺に穴が開いてしまう現象だという。
若い男性に多いらしい。
なぜそうなのかは、医者でもわからないという。
僕は、決して若くはないが、何故こんなことになってしまったのか。
この症状は、原因は不明なことが多いらしい。
とにかく、空気が肺から漏れて身体の中に充満しているので、一刻も早くこれを体外へ抜かなければならない。
脇腹に即刻穴をあけてチューブを差し込み、中の空気を抜いたのだった。

親しくしていた指揮者が、後に言った。
「音大の管楽器奏者に、よくあることだよ」って。
「そうか」、そういえば、僕は、その日の前日にサックスを思い切り練習していた。それが原因で、穴が開いてしまったのかと。
僕が罹っている病気からではないらしいことから、先ずは一安心であったのだが、逆に、楽器を吹くことが出来なくなってしまった。
悲しいことでもあった。
それ以来、この半年間、サックスを吹いていない。

僕は、12歳のころからブラバンに入ってラッパを吹いたり、クラリネットを吹いたりして親しんできたから、今、もう楽器を吹くことが出来ないとなると、やるせなくて仕方ない。

8月末に左の肺の手術をして退院したのだが、3時間かかった結構な手術だったので、術後の痛みが激しかった。
肺の一部を切り取ったのだから、傷口が痛むのは仕方ないとしても、僕の場合は、『肋間神経痛』にかかってしまったことが最悪だった。

左の脇腹に3か所穴をあけて、内視鏡のお世話になったのだが、その際に脊髄から脇腹を通って胸の方に走っている肋間神経に触ってしまったのだろう。
それに傷がついて、神経痛になってしまったのだ。
この痛みが半端でなく、退院後も四六時中痛みが走っていて、家で唸っていた。
あまりの痛さに、医者に相談したのだが、今の西洋医術では治す方法がないというのだ。
この痛みが永遠に続くのかと思うと、普通の感覚ではいられなかった。
人に相談したり、様々に調べて医者を探した。

西洋でダメなら、東洋医術に頼ってみようと、指圧や針治療に出かけた。
東京の医者に7軒、8軒と伺って診てもらったが、どれも痛みは取れなかった。
昨日は中目黒の針、今日は銀座の著名な針の医者、明日は荻窪の指圧という具合だった。

9軒目だったか、『神経ブロック治療』というものにかかってみた。
僕の場合、これが良かった。
約一月かよって、ブロック注射を打ってもらったら、少しずつ痛みが減ってきて、お陰様で今は、殆んど痛みが無くなってきたのである。
一時は、この痛みと生涯付き合うのかと傷心の気持ちで打ちのめされていたのだが、なんとか元に戻ってきた。
なんと幸せなことか。
というのも、そのブロック治療に通っていたところ、世間にはこんなにも様々な痛みと戦っている人いるんだと、実感したからだ。
周りに、膝や腰の痛みがひどくて、そろりそろりとしか歩けない人が何人もいた。
ヘルニアや脊髄の治療の人も多い。僕みたいな、神経痛の人も幾人もいた。
若い女性たちも悩んでいる人が多く、隣りで首の治療していたが、こういう症状は、なかなか治らないらしい。
その中で、僕は、退院後3月程度で痛みが去っていったので、幸運だった。
治してくれたお医者さん(女医さんだった)に感謝なのだが、神様にもお礼を言うべきか。

病気の話が長くなってしまった。
入院していた時から、僕の「村瀬塾」の方々が複数回、見舞いに来てくれた。
まるで僕の家族と同じように、身体を心配してくれた。
この人たちのためにも、回復して、これまでと同じように新選組江戸ツアーをしなければと、真剣に思うようになった。

演奏はできないが、指揮はできる。


弱気になっている場合ではなかった。
楽器は当分演奏できないが、歴史のお話はできる。
以前にもまして、歴史書を読みふける日が続いた。
昨年の秋口から暮れにかけてすでに演奏依頼がいくつか来ていて、困ってしまった。
僕自身が演奏できないから、友人に頼んで代理を務めてもらったり、涙を呑んでキャンセルしたりした。
また、演奏はしないが、クリスマスコンサートでは、コンサートマスターとして指揮者で出演したりした。
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また、昨年の暮れは講演が多く続いた。
どういう訳か、八王子方面からの依頼が何回かあって、そちらの歴史的なお話をした。
八王子と言えば代表的なのは、「松姫」である。
この人に関わる取り巻きは多いので、話は尽きない。

再び、『松姫』

松姫の婚約者は、あの織田信長の長男「信忠」である。
勿論、信長と信玄との政略結婚である。
7歳で婚約したのだが、信長の寝返りがあって3年で破約になってしまった。その後、信忠自身が武田を攻めて、高遠城で松姫の兄仁科盛信を死に追いやり、信玄の跡を継いだ勝頼も天目山に自害して武田は滅んだ。
かつての婚約者に殲滅させられてしまった松姫だったが、彼女は八王子に逃避することが出来た。
信忠は、松姫を改めて迎えたいと使者を送ったらしいが、その直後天正10年6月2日、本能寺で信長が討たれて嫡男の信忠も翌日死んだ。
かつての婚約者ではあったが、松姫は恋心を持ち続け、いくつかの祝言の話はあったが、生涯独身で通した。そして、信松院で信忠と武田の人々の霊を弔った。

八王子市と山梨県の上野原市の間に和田峠というのがある。ここは別名陣馬山とも言って、僕もハイキングに何回か言ったことがある。
この峠を松姫は幼い女の子3人を連れて、八王子方面に超えたのであった。
そして、上案下というところの尼寺『金照庵』に匿ってもらった。
その後、北条氏照の庇護を受けて心源院に移り、信松院に移って1616年に56歳で亡くなった。
八王子では、代官頭の大久保長安をはじめ多くの武田の遺臣たちに守られて、美人の松姫は独り身で通し、繭を育てて絹織物を名産とし、近所の子供たちに書を教えたりして、3人の幼子を育てた。

母の油川夫人が美しかったせいか、妹の菊姫(上杉景勝正室)も美形だったという。それだけに、近所の千人同心どもが連日訪れては、松姫様に面会を求めたという。

保科正之もーーー

松姫には、もっと伝説がある。
あの会津藩初代藩主保科正之が幼いころ、松姫に育てられたということだ。
これは姉の見性院に頼まれて幼子を預かったということだが、2代将軍秀忠の隠し子であった。
母の名は「お静」といって、神田の大工の娘だったという。
器量の良かったお静は、大奥に上がって将軍の手が付いた。でも、正室「お江」の手前産むことが出来なくて、外で生んだ。
家康が信玄の娘で松姫の姉の見性院に頼んで、育ててもらったと伝わる。

今年の大河「真田丸」とも縁がーーー

NHKの大河が、始まっている。
今年はなんと、あの「新選組!」の脚本を担当した三谷幸喜が再び脚本だ。
2004年だったから、12年ぶりか。
主役が、山南啓助役だった堺正人だし、あの時の役者が結構出るらしい。三谷軍団か。
真田幸村(信繁)は、1567年生まれだから松姫とは6歳下だ。
幸村はまだ10代の頃、上杉に人質として出された。
上杉景勝の正室菊姫は、松姫の妹である。
それに、幸村の父昌幸は、武田の人質として捕らえられていたが、むしろ、その才能を信玄にかわれて、武田の幹部に迎えられている。こう見ると、今年の大河、松姫とも縁が深いように思われてーーー。




清水次郎長もいたなあ―――3

【家康の上を行く次郎長  ―――?!】
【高島嘉右衛門と親友だった―――?!】


前回は、次郎長の前半生を振り返ってみたのだが、本日は、後半生を見てみよう。

次郎長は、慶応4年を境にして、それまでの前半生とは違って、驚愕の善人に変貌していた。
次郎長のした事業の全部を細かく述べることはできないので、彼の行ったことを列記して、その中で特筆すべきことを詳細に述べる。




1 明治元年9月18日――咸臨丸事件
旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、8月品川沖から艦隊を北へ向けて脱走させた。
途中、咸臨丸が暴風雨により房州沖で破船し、流されたのか、修復のためか、清水湊に停泊した。駿府藩は、官軍を欺いて脱走した船だけに、停泊させることに困惑した。この頃、東北では新政府軍が会津若松城を包囲攻撃中であったし、駿府藩は、幕府軍を説得し箱館行きを中止、降伏させねばならない立場にあったのだが。

 9.18日、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が、とうとう清水港入り、咸臨丸を砲撃した。
そして、副艦長春山弁蔵ら7名を斬殺した。春山弁蔵は長崎海軍伝習所の第1期生であり、草創期のわが国造船界にとって、重要な人材であった。砲撃の間に、乗組んでいた者の大半は海に飛び込み、近くの三保貝島などに泳ぎ着いた。咸臨丸は拿捕され、翌朝、品川まで曳航された。
 そののち、港には、多数の幕府軍の兵士の遺体が港に浮き、次第に腐乱し始めていた。官軍は放置したままで、何ら処置をしようとしないので、漁民たちには漁の邪魔にもなっていたのだが、「賊軍に加担する者は厳罰に処す」とのお触れが出ており、官軍の睨みを恐れて誰も手を出せずにいた。
黙っていられないのが次郎長である。
ただちに子分たちに小船を出させて港に浮かぶ遺体の回収作業をおこない、向島に埋葬、石碑まで建てた(壮士の墓)。
次郎長は官軍から出頭を命じられ、糺問官に「賊兵を葬うとはお上を恐れぬ行動」と詰め寄られる。
次郎長は言った。
「死ねば皆仏だ。仏に官軍も賊軍もない」と、言い放った。
結果的に次郎長にはお咎めなしになったが、背後に山岡鉄舟の影があったとも云われている。
鉄舟は、後に、明治政府の中で、明治天皇の付き人になっている。

勝海舟―山岡鉄舟―清水次郎長の関連がここで出来上がってくる。
山岡鉄舟と清水次郎長の親交ぶりに関心をもった勝海舟が次郎長との会談を望み、鉄舟に頼んだ。
ここで、海舟は、次郎長に意地の悪い質問をした。
家康が、「自分の家来で四天王と呼ばれていた酒井忠次、榊原康政、本田忠勝、井伊直正は、いつでも自分のために死んでくれる」と言ったのを、勝は覚えていて、勝海舟は次郎長に尋ねた。
「よお、次郎長さんよう。東海道一って言われる、あんたほどの親分なら、あんたのために死ねる子分はいってぇどれくらいいるんでえ」。
「そんなもんいやしませんや。―――でも子分のために死ねる親分なら、ここに一人いますぜ」。
世間広しといえども、将軍にしろ、大名にしろ、自分の手下のために死ねると言える人物がどれほどいるだろうか。
海舟も鉄舟も、この一言だけで、次郎長という人物の奥深さ、大きさに感嘆した。

2 牧の原の開墾事業
3 徳川の藩校「明徳館」内に英語学校の設立
4 「静降社」を設立し、清水港の改良、定期便(清川丸、静岡丸)の創設。
5 三保の松原に、塩田開発。
6 遠州相良に油田開発。
7 横浜からの船で出会った青年医師を、医師不足の清水で開業させる。
8 富士裾野に開墾事業。
9 清水港に料亭旅館「末廣」を開業。一大サロンに。(近年、当時のたたずまいのまま復元された)
10 東海道線開通事業に協力。
11 新門の辰五郎に頼まれ、前将軍慶喜の警護兼ねて『話し相手』に。





調べ上げると、以上のようなことが判明してきた。
これらは、難民化してしまった徳川将軍家家来2万人の衣食住を面倒見るばかりでなく、『職探し』まで苦心している。
(東日本大震災で被災した人たちには、衣食住ばかりでなく、仕事にありつかせるところまで、行政は見てやるべきだと思うが)

次郎長は、様々な開墾事業や塩田開発、油田開発は、徳川難民ばかりでなく、近所の刑務所につながれていた囚人たちの縄を解いで職業訓練をさせ、また、自分の子分大政小政をはじめ、もと任侠だった人間を共に開墾事業に就かせていた。
これらの次郎長の実業家として大事業のうち、特に7番目に挙げた『富士の裾野開墾』について述べたい。

これは、現在でも、「次郎長開墾」として知られている。
富士市大淵、次郎長町という地名まである。
次郎長が何故、ここを開墾地として定めたのか、今でも、分からないという。
一説には、「神道天照教」という新興宗教と関係があると言われている。
この宗教の教祖様は、意外にも、あの井伊直弼を襲撃した1人、徳田寛豊であった。日本国を平和で安らかな国にしたいという願いから、神教、仏教、儒教、キリスト教を統一して、老若男女の別なく、誰でもが参加できる教えを広めるというものであった。
場所は、富士宮の入会地6万坪に聖地として定め、そこに本殿を築いたというものだ。当時、信者の数は、10万人を超えていたという。そして、この辺りには、一つの街並みが完成していたという。

ここは、現在、桜の名所として知られているが、本殿のあった正面に4人による桜の植樹がされているという。1人は、西郷さんの弟で海軍大臣であった西郷従道。そして、高島嘉右衛門、清水次郎長、そして教祖の徳田寛豊である。
この場所に、日本の首都を遷都するという考えがあったという。それを首謀したのが、あの西郷隆盛であった。
西郷さんが、吉原宿の「たいや旅館」に宿した時、富士山の瑞気、天に沖する姿を見て、ここを日本の中枢地と定め、遷都の相談をしていたというものである。
その都市計画図が、今でも絵巻物として残されている。

僕は、先日、村瀬塾の仲間と横浜へウォーキングしたとき、「横浜に高島嘉右衛門が日本の夜明けを開幕し、それに次郎長も参加していた」ような気がしていた。
で、塾の阿部さんというメンバーに、嘉右衛門と次郎長の接点の調査を依頼していた。
彼は、精力的に調査をしてくれ、とうとう、横浜の図書館の職員からその証拠となるものを突き止めたのである。
それは、次郎長開墾に嘉右衛門も参加していたという証であった。
次郎長開墾は、それ自体は、次郎長が生きている間には、成功しなかった。富士のすそ野の開墾は想像以上に厳しいもので、一朝一夕には無理があったのである。
でも、この地は、その後、官と民が協力して、肥沃な土地に生まれ変わったとのことである。
それも、次郎長と嘉右衛門の開墾があったればこそのことである。

次郎長町の様子
 次郎長町の様子ーー平成


今の次郎長町のあたりの昔の地図を見てみると、驚くことに、次郎長開墾のすぐ右側に「高島開墾」があるではないか。

次郎長・高島開墾図
 次郎長・高島開墾図

これで、二人は、協力して開墾事業に携わっていたことが判明した。
では、一体、二人の最初の接点はどこにあったのであろうか。
それは、次郎長が『清水港――横浜港』の航路を開発するとき、自ら何べんも横浜に通って、すべての段取りから国への交渉など、嘉右衛門とひざを並べて相談していたからに他ならない。
かれは、清水で様々な事業を起こして茶をはじめとした物品を生産しても、それらを外国へ流通させなければ、事業になりえないことを理解していたから、どうしても航路を確立させることにまい進したのである。

当時、嘉右衛門は、横浜――函館ルートをすでに作り上げていたから、そうしたノウハウは体験していたのである。そこで、横浜での、二人の相談場所はいったいどこであったのか、知りたくなった。すると、意外な事実が発覚した。

高島嘉右衛門が、神奈川と横浜の海を埋め立てて、そこに鉄道を通したのは有名な話である。そして、その埋立地には、遊郭を誘致したのだった。
そして、その賑わいを、浮世絵師の歌川国松が浮世絵に残していたのである。
当時の繁盛ぶりと鉄道の近さがよくわかる。

高島町神風楼
高島町神風楼[1]


当時、最も人気のあった遊郭は、神風楼という店であったが、それは、三層楼の壮大なものであったという。それが、見事に、その浮世絵に描かれていた。
ここの楼主、山口粂蔵は、幕末には勤王の志士を庇護し、明治政府の高官たちは大概、この人に一度や二度は世話になっているほどの大変な大物であったが、次郎長親分も世話になっている。
粂蔵は、次郎長が横浜にやってくると、この神風楼を定宿にさせ、嘉右衛門とのつなぎ役を演じていたらしい。
また、次郎長が投獄されていた時分には、粂蔵自身が減免運動までして、早期の釈放を実現している。

神風楼の古写真
高島町・神風楼

なお、余談だが、箱根宮の下にある『箱根富士屋ホテル』は、粂蔵の養子仙之助が開業したものである。

つまり、次郎長と嘉右衛門との最初の接点は、なんと、この遊郭「神風楼」にあったのだ。二人は、ここで、新しい航路について相談し、また、富士裾野の開墾事業についても、検討を重ねていたのだった。

図らずも、ここの数か月、この二人と仲居屋十兵衛について密着してきた僕だが、まさか、こんな接点があったとは、全く知らないことであった。仲居屋十兵衛についても魅力的な人だが、この人は、横浜で文久2年までしか確認されていないので、次郎長との接触はあり得ない。だが、嘉右衛門とはつながりがあったに違いない。嘉右衛門は、安政5年以降には、すでに、横浜に進出しているからだ。

3回にわたって、次郎長について述べてきたが、まだまだ言いたいことはたくさんある。
言えなかったことは、次の機会に再び、登場していただく。




村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
    サイトに関してのお問い合わせ(動作不具合など)は管理人までお願いします。
    村瀬へのメールはこちら






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