村瀬彰吾がつづる新選組話題を含む日記&エッセイ。

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ご無沙汰でした。再び、始めます。


久しぶりのブログである。
こんなにも、間が開いてしまったのは、理由がある。
「肺」の手術をしたからである。

昨年の7月3日、突然左の肺に痛みが走った。
僕は、ここでも以前から書いてきたが、『間質性肺炎』という病気を持っている。
これがそうさせたのかと観念したのだが、近所の医者にその日のうちにかかったら、違うようである。

自然気胸?

その医者は、レントゲンを見てびっくり仰天、「すぐ、救急車だ」と看護師に命じて、立川の災害医療センターという国立の病院に運ばれた。
『自然気胸』という症状だった。

これは病気ではなく、一つの症状だという。
一口で言えば、肺に穴が開いてしまう現象だという。
若い男性に多いらしい。
なぜそうなのかは、医者でもわからないという。
僕は、決して若くはないが、何故こんなことになってしまったのか。
この症状は、原因は不明なことが多いらしい。
とにかく、空気が肺から漏れて身体の中に充満しているので、一刻も早くこれを体外へ抜かなければならない。
脇腹に即刻穴をあけてチューブを差し込み、中の空気を抜いたのだった。

親しくしていた指揮者が、後に言った。
「音大の管楽器奏者に、よくあることだよ」って。
「そうか」、そういえば、僕は、その日の前日にサックスを思い切り練習していた。それが原因で、穴が開いてしまったのかと。
僕が罹っている病気からではないらしいことから、先ずは一安心であったのだが、逆に、楽器を吹くことが出来なくなってしまった。
悲しいことでもあった。
それ以来、この半年間、サックスを吹いていない。

僕は、12歳のころからブラバンに入ってラッパを吹いたり、クラリネットを吹いたりして親しんできたから、今、もう楽器を吹くことが出来ないとなると、やるせなくて仕方ない。

8月末に左の肺の手術をして退院したのだが、3時間かかった結構な手術だったので、術後の痛みが激しかった。
肺の一部を切り取ったのだから、傷口が痛むのは仕方ないとしても、僕の場合は、『肋間神経痛』にかかってしまったことが最悪だった。

左の脇腹に3か所穴をあけて、内視鏡のお世話になったのだが、その際に脊髄から脇腹を通って胸の方に走っている肋間神経に触ってしまったのだろう。
それに傷がついて、神経痛になってしまったのだ。
この痛みが半端でなく、退院後も四六時中痛みが走っていて、家で唸っていた。
あまりの痛さに、医者に相談したのだが、今の西洋医術では治す方法がないというのだ。
この痛みが永遠に続くのかと思うと、普通の感覚ではいられなかった。
人に相談したり、様々に調べて医者を探した。

西洋でダメなら、東洋医術に頼ってみようと、指圧や針治療に出かけた。
東京の医者に7軒、8軒と伺って診てもらったが、どれも痛みは取れなかった。
昨日は中目黒の針、今日は銀座の著名な針の医者、明日は荻窪の指圧という具合だった。

9軒目だったか、『神経ブロック治療』というものにかかってみた。
僕の場合、これが良かった。
約一月かよって、ブロック注射を打ってもらったら、少しずつ痛みが減ってきて、お陰様で今は、殆んど痛みが無くなってきたのである。
一時は、この痛みと生涯付き合うのかと傷心の気持ちで打ちのめされていたのだが、なんとか元に戻ってきた。
なんと幸せなことか。
というのも、そのブロック治療に通っていたところ、世間にはこんなにも様々な痛みと戦っている人いるんだと、実感したからだ。
周りに、膝や腰の痛みがひどくて、そろりそろりとしか歩けない人が何人もいた。
ヘルニアや脊髄の治療の人も多い。僕みたいな、神経痛の人も幾人もいた。
若い女性たちも悩んでいる人が多く、隣りで首の治療していたが、こういう症状は、なかなか治らないらしい。
その中で、僕は、退院後3月程度で痛みが去っていったので、幸運だった。
治してくれたお医者さん(女医さんだった)に感謝なのだが、神様にもお礼を言うべきか。

病気の話が長くなってしまった。
入院していた時から、僕の「村瀬塾」の方々が複数回、見舞いに来てくれた。
まるで僕の家族と同じように、身体を心配してくれた。
この人たちのためにも、回復して、これまでと同じように新選組江戸ツアーをしなければと、真剣に思うようになった。

演奏はできないが、指揮はできる。


弱気になっている場合ではなかった。
楽器は当分演奏できないが、歴史のお話はできる。
以前にもまして、歴史書を読みふける日が続いた。
昨年の秋口から暮れにかけてすでに演奏依頼がいくつか来ていて、困ってしまった。
僕自身が演奏できないから、友人に頼んで代理を務めてもらったり、涙を呑んでキャンセルしたりした。
また、演奏はしないが、クリスマスコンサートでは、コンサートマスターとして指揮者で出演したりした。
murasesiki.jpg


また、昨年の暮れは講演が多く続いた。
どういう訳か、八王子方面からの依頼が何回かあって、そちらの歴史的なお話をした。
八王子と言えば代表的なのは、「松姫」である。
この人に関わる取り巻きは多いので、話は尽きない。

再び、『松姫』

松姫の婚約者は、あの織田信長の長男「信忠」である。
勿論、信長と信玄との政略結婚である。
7歳で婚約したのだが、信長の寝返りがあって3年で破約になってしまった。その後、信忠自身が武田を攻めて、高遠城で松姫の兄仁科盛信を死に追いやり、信玄の跡を継いだ勝頼も天目山に自害して武田は滅んだ。
かつての婚約者に殲滅させられてしまった松姫だったが、彼女は八王子に逃避することが出来た。
信忠は、松姫を改めて迎えたいと使者を送ったらしいが、その直後天正10年6月2日、本能寺で信長が討たれて嫡男の信忠も翌日死んだ。
かつての婚約者ではあったが、松姫は恋心を持ち続け、いくつかの祝言の話はあったが、生涯独身で通した。そして、信松院で信忠と武田の人々の霊を弔った。

八王子市と山梨県の上野原市の間に和田峠というのがある。ここは別名陣馬山とも言って、僕もハイキングに何回か言ったことがある。
この峠を松姫は幼い女の子3人を連れて、八王子方面に超えたのであった。
そして、上案下というところの尼寺『金照庵』に匿ってもらった。
その後、北条氏照の庇護を受けて心源院に移り、信松院に移って1616年に56歳で亡くなった。
八王子では、代官頭の大久保長安をはじめ多くの武田の遺臣たちに守られて、美人の松姫は独り身で通し、繭を育てて絹織物を名産とし、近所の子供たちに書を教えたりして、3人の幼子を育てた。

母の油川夫人が美しかったせいか、妹の菊姫(上杉景勝正室)も美形だったという。それだけに、近所の千人同心どもが連日訪れては、松姫様に面会を求めたという。

保科正之もーーー

松姫には、もっと伝説がある。
あの会津藩初代藩主保科正之が幼いころ、松姫に育てられたということだ。
これは姉の見性院に頼まれて幼子を預かったということだが、2代将軍秀忠の隠し子であった。
母の名は「お静」といって、神田の大工の娘だったという。
器量の良かったお静は、大奥に上がって将軍の手が付いた。でも、正室「お江」の手前産むことが出来なくて、外で生んだ。
家康が信玄の娘で松姫の姉の見性院に頼んで、育ててもらったと伝わる。

今年の大河「真田丸」とも縁がーーー

NHKの大河が、始まっている。
今年はなんと、あの「新選組!」の脚本を担当した三谷幸喜が再び脚本だ。
2004年だったから、12年ぶりか。
主役が、山南啓助役だった堺正人だし、あの時の役者が結構出るらしい。三谷軍団か。
真田幸村(信繁)は、1567年生まれだから松姫とは6歳下だ。
幸村はまだ10代の頃、上杉に人質として出された。
上杉景勝の正室菊姫は、松姫の妹である。
それに、幸村の父昌幸は、武田の人質として捕らえられていたが、むしろ、その才能を信玄にかわれて、武田の幹部に迎えられている。こう見ると、今年の大河、松姫とも縁が深いように思われてーーー。




清水次郎長もいたなあ―――3

【家康の上を行く次郎長  ―――?!】
【高島嘉右衛門と親友だった―――?!】


前回は、次郎長の前半生を振り返ってみたのだが、本日は、後半生を見てみよう。

次郎長は、慶応4年を境にして、それまでの前半生とは違って、驚愕の善人に変貌していた。
次郎長のした事業の全部を細かく述べることはできないので、彼の行ったことを列記して、その中で特筆すべきことを詳細に述べる。




1 明治元年9月18日――咸臨丸事件
旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、8月品川沖から艦隊を北へ向けて脱走させた。
途中、咸臨丸が暴風雨により房州沖で破船し、流されたのか、修復のためか、清水湊に停泊した。駿府藩は、官軍を欺いて脱走した船だけに、停泊させることに困惑した。この頃、東北では新政府軍が会津若松城を包囲攻撃中であったし、駿府藩は、幕府軍を説得し箱館行きを中止、降伏させねばならない立場にあったのだが。

 9.18日、新政府軍の富士山丸、武蔵丸、飛竜丸の3艦が、とうとう清水港入り、咸臨丸を砲撃した。
そして、副艦長春山弁蔵ら7名を斬殺した。春山弁蔵は長崎海軍伝習所の第1期生であり、草創期のわが国造船界にとって、重要な人材であった。砲撃の間に、乗組んでいた者の大半は海に飛び込み、近くの三保貝島などに泳ぎ着いた。咸臨丸は拿捕され、翌朝、品川まで曳航された。
 そののち、港には、多数の幕府軍の兵士の遺体が港に浮き、次第に腐乱し始めていた。官軍は放置したままで、何ら処置をしようとしないので、漁民たちには漁の邪魔にもなっていたのだが、「賊軍に加担する者は厳罰に処す」とのお触れが出ており、官軍の睨みを恐れて誰も手を出せずにいた。
黙っていられないのが次郎長である。
ただちに子分たちに小船を出させて港に浮かぶ遺体の回収作業をおこない、向島に埋葬、石碑まで建てた(壮士の墓)。
次郎長は官軍から出頭を命じられ、糺問官に「賊兵を葬うとはお上を恐れぬ行動」と詰め寄られる。
次郎長は言った。
「死ねば皆仏だ。仏に官軍も賊軍もない」と、言い放った。
結果的に次郎長にはお咎めなしになったが、背後に山岡鉄舟の影があったとも云われている。
鉄舟は、後に、明治政府の中で、明治天皇の付き人になっている。

勝海舟―山岡鉄舟―清水次郎長の関連がここで出来上がってくる。
山岡鉄舟と清水次郎長の親交ぶりに関心をもった勝海舟が次郎長との会談を望み、鉄舟に頼んだ。
ここで、海舟は、次郎長に意地の悪い質問をした。
家康が、「自分の家来で四天王と呼ばれていた酒井忠次、榊原康政、本田忠勝、井伊直正は、いつでも自分のために死んでくれる」と言ったのを、勝は覚えていて、勝海舟は次郎長に尋ねた。
「よお、次郎長さんよう。東海道一って言われる、あんたほどの親分なら、あんたのために死ねる子分はいってぇどれくらいいるんでえ」。
「そんなもんいやしませんや。―――でも子分のために死ねる親分なら、ここに一人いますぜ」。
世間広しといえども、将軍にしろ、大名にしろ、自分の手下のために死ねると言える人物がどれほどいるだろうか。
海舟も鉄舟も、この一言だけで、次郎長という人物の奥深さ、大きさに感嘆した。

2 牧の原の開墾事業
3 徳川の藩校「明徳館」内に英語学校の設立
4 「静降社」を設立し、清水港の改良、定期便(清川丸、静岡丸)の創設。
5 三保の松原に、塩田開発。
6 遠州相良に油田開発。
7 横浜からの船で出会った青年医師を、医師不足の清水で開業させる。
8 富士裾野に開墾事業。
9 清水港に料亭旅館「末廣」を開業。一大サロンに。(近年、当時のたたずまいのまま復元された)
10 東海道線開通事業に協力。
11 新門の辰五郎に頼まれ、前将軍慶喜の警護兼ねて『話し相手』に。





調べ上げると、以上のようなことが判明してきた。
これらは、難民化してしまった徳川将軍家家来2万人の衣食住を面倒見るばかりでなく、『職探し』まで苦心している。
(東日本大震災で被災した人たちには、衣食住ばかりでなく、仕事にありつかせるところまで、行政は見てやるべきだと思うが)

次郎長は、様々な開墾事業や塩田開発、油田開発は、徳川難民ばかりでなく、近所の刑務所につながれていた囚人たちの縄を解いで職業訓練をさせ、また、自分の子分大政小政をはじめ、もと任侠だった人間を共に開墾事業に就かせていた。
これらの次郎長の実業家として大事業のうち、特に7番目に挙げた『富士の裾野開墾』について述べたい。

これは、現在でも、「次郎長開墾」として知られている。
富士市大淵、次郎長町という地名まである。
次郎長が何故、ここを開墾地として定めたのか、今でも、分からないという。
一説には、「神道天照教」という新興宗教と関係があると言われている。
この宗教の教祖様は、意外にも、あの井伊直弼を襲撃した1人、徳田寛豊であった。日本国を平和で安らかな国にしたいという願いから、神教、仏教、儒教、キリスト教を統一して、老若男女の別なく、誰でもが参加できる教えを広めるというものであった。
場所は、富士宮の入会地6万坪に聖地として定め、そこに本殿を築いたというものだ。当時、信者の数は、10万人を超えていたという。そして、この辺りには、一つの街並みが完成していたという。

ここは、現在、桜の名所として知られているが、本殿のあった正面に4人による桜の植樹がされているという。1人は、西郷さんの弟で海軍大臣であった西郷従道。そして、高島嘉右衛門、清水次郎長、そして教祖の徳田寛豊である。
この場所に、日本の首都を遷都するという考えがあったという。それを首謀したのが、あの西郷隆盛であった。
西郷さんが、吉原宿の「たいや旅館」に宿した時、富士山の瑞気、天に沖する姿を見て、ここを日本の中枢地と定め、遷都の相談をしていたというものである。
その都市計画図が、今でも絵巻物として残されている。

僕は、先日、村瀬塾の仲間と横浜へウォーキングしたとき、「横浜に高島嘉右衛門が日本の夜明けを開幕し、それに次郎長も参加していた」ような気がしていた。
で、塾の阿部さんというメンバーに、嘉右衛門と次郎長の接点の調査を依頼していた。
彼は、精力的に調査をしてくれ、とうとう、横浜の図書館の職員からその証拠となるものを突き止めたのである。
それは、次郎長開墾に嘉右衛門も参加していたという証であった。
次郎長開墾は、それ自体は、次郎長が生きている間には、成功しなかった。富士のすそ野の開墾は想像以上に厳しいもので、一朝一夕には無理があったのである。
でも、この地は、その後、官と民が協力して、肥沃な土地に生まれ変わったとのことである。
それも、次郎長と嘉右衛門の開墾があったればこそのことである。

次郎長町の様子
 次郎長町の様子ーー平成


今の次郎長町のあたりの昔の地図を見てみると、驚くことに、次郎長開墾のすぐ右側に「高島開墾」があるではないか。

次郎長・高島開墾図
 次郎長・高島開墾図

これで、二人は、協力して開墾事業に携わっていたことが判明した。
では、一体、二人の最初の接点はどこにあったのであろうか。
それは、次郎長が『清水港――横浜港』の航路を開発するとき、自ら何べんも横浜に通って、すべての段取りから国への交渉など、嘉右衛門とひざを並べて相談していたからに他ならない。
かれは、清水で様々な事業を起こして茶をはじめとした物品を生産しても、それらを外国へ流通させなければ、事業になりえないことを理解していたから、どうしても航路を確立させることにまい進したのである。

当時、嘉右衛門は、横浜――函館ルートをすでに作り上げていたから、そうしたノウハウは体験していたのである。そこで、横浜での、二人の相談場所はいったいどこであったのか、知りたくなった。すると、意外な事実が発覚した。

高島嘉右衛門が、神奈川と横浜の海を埋め立てて、そこに鉄道を通したのは有名な話である。そして、その埋立地には、遊郭を誘致したのだった。
そして、その賑わいを、浮世絵師の歌川国松が浮世絵に残していたのである。
当時の繁盛ぶりと鉄道の近さがよくわかる。

高島町神風楼
高島町神風楼[1]


当時、最も人気のあった遊郭は、神風楼という店であったが、それは、三層楼の壮大なものであったという。それが、見事に、その浮世絵に描かれていた。
ここの楼主、山口粂蔵は、幕末には勤王の志士を庇護し、明治政府の高官たちは大概、この人に一度や二度は世話になっているほどの大変な大物であったが、次郎長親分も世話になっている。
粂蔵は、次郎長が横浜にやってくると、この神風楼を定宿にさせ、嘉右衛門とのつなぎ役を演じていたらしい。
また、次郎長が投獄されていた時分には、粂蔵自身が減免運動までして、早期の釈放を実現している。

神風楼の古写真
高島町・神風楼

なお、余談だが、箱根宮の下にある『箱根富士屋ホテル』は、粂蔵の養子仙之助が開業したものである。

つまり、次郎長と嘉右衛門との最初の接点は、なんと、この遊郭「神風楼」にあったのだ。二人は、ここで、新しい航路について相談し、また、富士裾野の開墾事業についても、検討を重ねていたのだった。

図らずも、ここの数か月、この二人と仲居屋十兵衛について密着してきた僕だが、まさか、こんな接点があったとは、全く知らないことであった。仲居屋十兵衛についても魅力的な人だが、この人は、横浜で文久2年までしか確認されていないので、次郎長との接触はあり得ない。だが、嘉右衛門とはつながりがあったに違いない。嘉右衛門は、安政5年以降には、すでに、横浜に進出しているからだ。

3回にわたって、次郎長について述べてきたが、まだまだ言いたいことはたくさんある。
言えなかったことは、次の機会に再び、登場していただく。




清水次郎長もいたなあ―――2


次郎長の前半生は

清水次郎長の大変身、大活躍を語る前に、彼の人生の前半を振り返ってみよう。
彼は、維新の年に、自分のなりふりを180度転換させている。

●文政3年 1820年 
  1月1日に、駿河国清水町に、船頭の次男として生まれている。
  名は、長五郎。その後、叔父次郎八に養子として引き取られるが、次郎八の長だから、次郎長と呼ばれた。
●文政12年 1829年
  性格があまりにも粗暴なので、由比倉沢の伯父の元に預けられる。
●天保5年 1834年
  15歳の時、百両の金を持ち逃げし、それを元に米相場で巨利を得る。その後、旅の僧侶に、余生が25歳と告げられ、任侠の道へ。
●天保13年 1842年
  酔って帰路の途中、闇討ちに会って瀕死の重傷を負う。それを機に、生涯、酒を断つ。
賭博のもつれから人を斬り、清水を出て無宿者となり、三河の吉良の武一より剣術を学ぶ。
●弘化2年 1845年
  清水に戻り、甲州紳の文吉と駿州の和田島の太左衛門の喧嘩を仲裁し、一気にその侠名を高める。
●安政5年 1858年
  甲州、祐天の親分隠居を斬る。役人に追われた長五郎は、瀬戸の岡一に家族と子分たちで身を寄せるが、その後、名古屋で奥方お蝶は、病で逝く。
  (その後、文久3年2月、祐天仙之介は子分を連れて『浪士組』に加入、上洛し5番隊へ。清河八郎らと江戸へ戻った後の10月、同じ新徴組にいた男に仇討に会う。)
●万延元年 1860年
  森の石松、金比羅神社からの帰り、都田の吉兵衛・梅吉兄弟に惨殺される。
●文久元年 1861年
  次郎長、子分たちとともに、石松の仇を晴らす。
●文久2年 1862年
  甲州黒駒の勝蔵は悪事の限りをつくし、捕吏の追うところとなる。遠州に逃れてきたが次郎長は勝蔵を甲州に追いやる。
●慶応2年 1866年
  吉良の仁吉に加勢し、荒神山にて穴太徳・黒駒を倒す。
その後、次郎長の貫録が轟き、全国で有名になる。
●慶応4年 1868年
  駿府町奉行が廃止され、浜松藩家老伏谷如水が駿府町差配役となる。
  伏谷に見込まれた次郎長は、その際、街道警護役に任ぜられ、それまでの罪科を免じられ、帯刀を許される。

ここまでが、清水次郎長の前半生である。
ここから、彼が没する明治26年までの後半生が始まるのだが、波
乱万丈の出来事を、一つ一つ紹介してゆきたい。

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「戦」に負ければ、野に下るだけ

関ヶ原の戦で徳川が勝ち、豊臣を完全消滅させて栄華を誇っていた徳川であったが、260年経過して今度は負けた。
ただ、それだけのことである。

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前回のこのコーナーで、上記の文章を書いた。
こういうことが興ると、権力の構造が変わるのだから、警察・司法
権力も治安体制も変わることになる。
(余談だが、数年前、民主党が政権をとったことがあったが、あの時、森喜朗という元の総理大臣が地団太踏んで悔しがった。「野に下ることとは、こんなにもつらいことか」と。その後、今は、再び政権の座に返り咲いて大いに喜び、自分はオリンピックの責任者になって意気揚々としているが、もう大分お歳のようで)

慶応3年から4年にかけて、15代将軍慶喜が政権を返上したが、実は、彼には思惑があって、その後も自分が「政」を行なえるように、周囲に準備させていたことは明白になっている。
でも、幕臣たちの多くはそんなことは知らないから、右往左往して、何をどうしてよいやらわからない状況であった。何しろ、260年以上も続いてきてる政権なのだから、崩れ去るなんてことは夢にも思えないし、思いたくもない。
だが、現実に、将軍が大政を奉還してしまった。
悲しくも情けない心境であったし、これから、家来や一族郎党をどのように面倒見ていくのか、路頭に迷った。
そして、慶応4年の8月以降、結論がないまま成行きで、新天地の清水港へ向かったのである。この人数、約18000人から20000人だったといわれる。
当時、清水港の世帯が全部で900だったというから、この幕臣家族たちが到着して、どのように生計が成り立って行ったのか、きっと悲惨な実態であったであろう。
後に、ゆっくり話すが、次郎長が幕臣たちの生活のために、かなり腐心して奉仕したことが伝わっている。

僕は思うのだが、慶喜が本心で政権を返上してれば、鳥羽伏見の戦も、その後の戊申の役もなくて済んだと思う。
現世の人は、竜馬が生きていれば、戊辰戦争は起こらなかったなんて言う人が多いが、そんなことはない。それは、後世になって、坂本龍馬を過大評価しすぎて、そうした風潮を生みだしているだけだ。
慶喜に野心がなく素直に政権を返上していれば、徳川家の領地も財産も、あそこまでみじめな仕打ち(駿河70万石)を受けないで済んだと思われる。
官軍側の幹部たちは、そこまで悪人ではない。恭順している相手を攻め落として殺すなどという仕打ちはしないはずだ。これは、当時、イギリスをはじめ、フランスやオランダなど、先進国がそうしたことを許さないからでもある。
現に、当時のイギリス公使パークスは、「白旗を上げている相手を殺すことが、武士道か」と、西郷に迫ったといわれているからだ。
西郷は、こういうことにはことに敏感で、後に、弟子の黒田清隆に『降参した藩主自らが白袴をはいて責任を取り、切腹の覚悟である。庄内藩には、寛大な処置をするように』指示しているし、榎本が函館で降参した時も、西郷は内緒で函館湾にいた。黒田の処置を確かめたかったと思われる。そして、函館政府の幹部連中誰一人殺さないで、東京に連れて行き、中野の刑務所に入れた。
その後、刑務所内では破格の待遇に驚いたばかりか、早々に釈放されて、その後、榎本を明治政府の大臣にまで抱えている。

もし、土方がこのなかにふくまれていたら、―――。
僕は、そうして欲しかった。
もし、そうだとしたら、榎本と一緒に蝦夷地に派遣されて、ロシア対策に当たっただろうし、歳蔵ほどの才能があれば、その後の日露戦争に東郷平八郎以上の働きがあっただろうと想像するからだ。
この時代の英雄たちは、人生の前半と後半が大きく変貌している人が多い。土方歳三も、次郎長同様、後半生が劇的に変わった可能性がある。
話しが、飛躍しすぎた。

だが、慶喜は新政権でも自分がトップの座に座って両院を支配しようとした。
それが、西郷や大久保を怒らせた。
危機を感じた官軍側は、朝廷を前面に出して戦を巧妙に仕掛けてきたのである。そして、戊辰戦争へとつながる。

次郎長の恩人、浜松藩家老伏谷如水

駿府では、徳川の時は町奉行が治安を仕切っていたが、慶応4年に入ってからは、幕藩体制が崩れているのだから、もういない。しかし、ここだけは誰かが権力を振るわないと、社会の安寧が保たれない。

そこで、浜松藩の家老伏谷如水が3月22日、駿府町差配役となって警察長官となったが、4月26日には、駿河、遠江、三河の裁判所判事も命じられた。
伏谷は、自分一人では、すべてに目が届かない。
誰か、有能な補佐役が必要なのだが、この街道筋を仕切れる人物が欲しかった。調査をした結果、清水に住む山本長五郎という人物に着目した。早速部下に命じて、足袋屋に変装させて次郎長宅に入り込み、人物を観察させ、伏谷に報告させたのである。

その結果、一介の博奕打ちではないことが判明した。さすが、東海道を仕切る大親分にふさわしい振る舞いと人気であった。
本当の侠客とは、この人のような人物を言うのだと思った。
(侠客――弱きを助け、強気をくじく人物)

次郎長のところに、駿府町差配役から出頭命令が来た。
「今、この街道筋では、事態が逼迫していて物騒なことが多い。取り締まる役人側も徳川だの官軍だのとはっきりしない上、ゆすり、たかり、人を殺めることが横行していて憂慮している。
そこで、その方に頼みがあるのだ。市中警護役を引き受けてもらいたい」
「とんでもございません。私のような身分の卑しい無頼の徒が、おかみの御用なぞ、勤まるわけがありません。むしろ、いつ捕まるか、びくびくしている毎日でございます。どうか勘弁して下せえまし」
このような返事が返ってくることを想定していた如水は、
「おい、入れ」
1人の役人が入ってきた。
次郎長、この男を見てびっくり。なんと、昨日も自分の家にやってきて足袋を売りつけた、その男だ。あまり熱心なので、いくつか買ってやったが、数日前から、この近辺を徘徊している商人である。そう、如水が放った探索方であった。
次郎長の言動は逐一、如水に報告されていたのである。
「自分を覚えているか」
探索方は、次郎長の顔を見て、ニヤリとした。
「いや、まいりました」

判事となっていた如水は、次郎長の態度にすっかり惚れ込んでしまい、うわさ通りの大親分に街道筋の治安を任せることにした。

積年の次郎長の罪科はすべて免除され、それどころか、平民としては破格の帯刀を許された。
天保13年、23歳の時に国を出て以来、実に27年もの間、常に命を狙われていて、1日たりとも世をはばからないときはなかった長五郎だが、ここに来て初めて、青天白日の身となった。

次郎長の宿敵、黒駒の勝蔵

黒駒の勝蔵は、この頃、甲州の博徒の大親分であった。多くの悪行を重ね、富士山を挟んで、東海道の次郎長とは抗争を繰り返していた。
その勝蔵が、あろうことか、官軍の先方隊として京都から進軍してきた。相楽惣三が組織した赤報隊の参謀として羽振りをきかせていたのである。

次郎長も今は、官軍側の十手を預かる身である。
時は、慶応4年3月。
有栖宮熾仁親王を総督とした慶喜征討軍の先遣隊である。
「あんな悪党が官軍の先方を勤めるなんぞ、許されるものじゃねえ」と、次郎長はいきりたち、子分たちを集合させてゆく手を遮ろうとした。だが、官軍総督府判事の如水になだめられて、悶着は起こらなかった。

その後、勝蔵は、明治天皇の皇居への入城までも、京都からお供をしたと伝えられる。だが、赤報隊は解散され、相楽は偽官軍として罰せられた。勝蔵は徴兵七番隊に編入され、隊はその後第一勇軍隊と名をかえた。
彼は小隊長を任命されたが、江戸を経て仙台まで従軍している。

博徒が何故、重用されたか

幕府は、博徒を取り締まりつつ、治安維持のために利用もしていた。
どうせ、悪行を働くのは博奕打ちをはじめとした悪人どもなのだから、奴らを雇ってしまえば、事件は減るはずだ。それに、事が起こった時は、どこのどいつがヤッタかをいち早く探索できる能力は、与力同心なぞよりも、ずっとすぐれていたのである。
だから、目明しとして雇われていた者たちの殆どは、火消しや香具師、博徒の親分なのである。

また、尊王攘夷運動の激化と暗殺の横行に頭を痛めていた徳川は、博徒の兵力と組織力が魅力であったから、彼らを活用した。
一方官軍側も、博徒の招集を活性化させている。幕府に終われている凶状持ちの勝蔵は、討幕派に入って活躍することになるが、結局は官軍に使い捨てにされて、明治4年、抹殺されることとなった。

つづく
村瀬執筆 時代小説
プロフィール

村瀬彰吾

  • Author:村瀬彰吾
  • 2004年大河ドラマ「新選組!」の決定以来、新選組特命主幹、日野市立新選組のふるさと歴史館館長を経て芸術文化担当として歴史に触れる毎日の生活を送っている村瀬彰吾のブログへようこそ!
    日野市在住。2006年に小説「人間 土方歳三」を出版しました。小説の詳しい情報や通販はH Pに。
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